【 なぜ周家と孫家は接近したのか? 】
  • 周家と孫家の接近は、孫堅の代に始まる。孫堅は董卓討伐の軍を立ち上げると、家族を富春から舒に移らせた。孫策伝では、周瑜が孫策の評判を聞いて舒からはるばる富春までやってきて意気投合し、周瑜の薦めで孫策自身で舒に転居するのを決めたように書かれているが、この時点で家長は孫堅であり、子の孫策が自分の意志で住居を変更できるとは思えない。舒への転居を決めたのは孫堅であろう。そして、舒では孫家はほとんど周家の居候状態であり、道の南側の大きな屋敷を周家から譲ってもらい、互いに必要な物を分け合って暮らしていたのである。まさか、孫堅が住む場所の宛てもなく、舒への転居を決めるはずもなく、この転居は初めから周家を頼りにしての物としか考えられない。つまり、孫堅の代からすでに周家と孫家の密接な関係は始まっている。
  • 孫家にとって周家が非常に重要なのは理解できる。家柄の悪い孫家がすでに高い名声を得ている周家と接近するメリットは分る。だが、周家の方が孫家に接近するメリットが分らない。一般的に江東豪族が孫家を支持した理由として、武門の孫家を旗頭にすることで、江東の安定化を計った・・という説明が為されることがある。陸家などはそうかも知れないが、周家の場合、この時点で孫家は江東に割拠していた訳でもない。孫堅のベクトルは董卓を倒すことにあり、その本拠も荊州・長沙にあった。周家が江東安定化のために孫家に接近したというのは多少難がある。
  • ここからは、根拠のない推測となってしまうが、孫堅の代にすでに孫家と周家の接近は始まっている。その理由はおそらく江東の安定化のためではない。また、孫堅だけでなく周家側の方で、孫家を援助することを決めた人物がいるはず・・ではなかろうか?いくら、英邁闊達で、若い時から期待されていたとは言え、孫策と同い年の周瑜がこの時点でまだ家長であるとは思えない。董卓討伐の連合軍が結成されていた当時の周家の家長は誰であろうか?この当時となると、おそらく前述の大尉となっていた周忠であると考えるのが妥当かもしれない。周忠は前述のように賈詡と共謀して、反李傕側の名士である朱儁を入朝させようとしたり、李傕と仲が悪かったということが書かれている。おそらく、朝廷には仕えていたが、その家系から言っても親・董卓派という人物ではあるまい。むしろ、宮中から董卓一派の一掃を狙っていた可能性もある。だとすれば、なんとなく周家が反董卓の急先鋒であった孫堅を援助する理由も見える気がするのである。
  • また、例の信用できない文献ではあるが、周瑜伝の注釈として記載されている江表伝に、面白い記述がある。孫策は江東に割拠した頃に、【周瑜は英俊にして異才、私と幼なじみで血のつながりもある。】と言っているのだ。前半はただの誉め言葉なのであまり意味はない。問題は【血のつながりもある。】の部分だ。孫策と周瑜は大喬・小喬の姉妹を共に妻としており、そういう意味で確かに血縁はある。だが、江表伝の記述をそのままに受け取るならば、孫策と周瑜には、血のつながり、つまり祖先になんらかのつながりがある・・・ということになる。
    • (注)この部分の原文。「周公瑾英雋異才、與孤有總角之好、骨肉之分」。これを筑摩訳は「周瑜は英俊にして異才、私と幼なじみで血のつながりもある」と訳している。「総角」というのは「幼い頃から」という事。「骨肉之分」を「血のつながり」と訳してある。血縁がある・・と読めるが、一方で「骨と肉のように離れなれない関係」という意味とも取れる。訳するって難しいなぁと。
      ただ「大変親しい関係」というなら、孫策と周瑜は子供の頃からの知り合いであるのは間違えなく、なんてことない事実だ。ただ血縁となると、下にあるように孫氏ではなく、呉氏との繋がりしか、あり得ない。周瑜の父・周異やその兄の周暉らは、「賓客を好み、長江や淮水の流域で、一大勢力を築いていた」らしいので、どこかで呉氏と繋がるのかもしれない。だとしても遠い遠い親戚くらいの関係のはずである。
  • 普通に考えて、父方の孫堅の家系と周家の家系では繋がりようがない。孫堅の家系はその祖先が何をやっていたかすら定かではないアンダーグランドな家系である。名門周家との繋がりがあるはずがない。あるとすれば、母方の呉家の方である。呉家の祖先と周家の祖先でなんらかの繋がりがあった可能性はないだろうか?共に揚州の豪族としてなんらかの血縁があったとしても不思議ではない。また、舒に移ってからの周家と孫家の兄弟同然の暮らしぶりは、何か打算を越えた物を感じさせる。呉夫人は、孫権に対して【周瑜は我が子同然に思っています。あなたも周瑜を兄と思って仕えなさい。】と言っているが、この扱いは確かに、一配下・もしくは一協力者に対する言い方ではない。それだけ周瑜の影響力が巨大であったとも言えるが、もし呉家と周家の間に血縁関係が存在するとしたら、呉氏のこの言葉は、なんら不自然性のない言葉であるとも言える。江表伝の一文からの、かなり推測に推測を重ねた推論ではあるが、孫家と周家になんらかの血縁が存在したと考えると、その後の孫・周両家の強力なラインの説明として非常に分かり易いのである。