【 落差 】
- 赤壁の戦いの詳細については、孫権伝【孫権・曹操・劉備・・・それぞれの内情】【赤壁の前哨戦】【赤壁の戦い】を参照。ここでは周瑜のみに絞って考察します。
- 抗戦の決定を受け、周瑜は3万の水軍を率いて夏口を目指す。だが、その軍の構成に問題があった。孫権は周瑜の戦線分析を経て、抗戦を決意したにも関わらず、都督(司令官)を二人任命したのである。
- 左都督 周瑜
- 右都督 程普
- 「程普」
三郡(丹楊・呉・会稽)の不服従民を討伐。
江夏討伐に参戦、豫章、楽安を討伐。
太史慈に代わって海昏の守備に当たる。 - 「周瑜」
孫瑜の目付けとして麻と保の砦を討伐。
黄祖が豫章に進入した時、これを撃破。
黄祖討伐に際し、前部大督として参戦。
- 特に、孫権就任時に起きた反乱に対して、周瑜の動きがないのが目立つ。様々な要因があるとは思うが、孫権から見ると、二人の実戦能力に大差を感じてなかったのかもしれない。また程普は古参としてのプライドが強く、このような大戦は自分が指揮を執るべきだ・・と思っていたらしい。この司令官同士の対立は【国家の大事を損なう寸前(孫皎伝)】まで行った。この対立をなんとか回避できたのは、周瑜が身を低くして程普を丁重に扱ったからに尽きる。程普の方は気性の激しい所があり、自分から和解しようというタイプではない。
後に和解した程普は「周瑜と酒を飲んでいると芳醇な美酒を飲んでいるようで酔った事に気が付かない。」とまで言っているのだから、いかに周瑜が気を配ったかが分かる。 - こうした軍の構成上の問題を孕みながら、周瑜は夏口を目指す。夏口には劉備一党が先に到着していた。だが劉備一党と合流すると、周瑜は程普に示したような丁重さを劉備には一切見せない。周瑜が劉備に言った言葉が劉備伝の注(江表伝)にある。
- (劉備が歓迎の使者を送ると)軍務があって離れられないからそっちが来てくれ。・・・と言った。
- (劉備が戦略について訪ねると)戦はうちがするから、そっちは見ててくれ。・・・と言った。
- (劉備が魯粛と会いたいと言うと)軍務があるから別の機会にしてくれ。・・・と言った。
- つまり【あまり役に立たない(笑)】という事だ。水上戦で劉備一党の力を必要とする場面がない。すでに周瑜は勝機を掴んでおり、赤壁の戦いでは周瑜の戦略構想の中に劉備は入ってなかった。しかも、今は司令官同士の対立やら部隊同士の対立(甘寧と凌統)まで抱えており、曹操軍という外患に孫権軍という内患まで抱えている状態。軍務・軍務と言い訳のように使っているが、本当の所、軍務で精一杯だったかも・・という気がしないでもない。
- だが、程普には人間的な心の広さを見せたのに、劉備に対して実にそっけない・・という落差がどこから生まれるか?というと、周瑜はあくまで軍務最優先というタイプだったという事じゃないか?と思う。外交的・政治的立場から考えれば、ここで劉備一党にそっけない態度を取るのは、マイナスも多いはずだ。だが、周瑜は、今までの経歴を見ても、軍事に執着し、政治・外交はノータッチ・・と、いう傾向が見られる。
- こうした周瑜とのギクシャクした雰囲気もあって、劉備は赤壁では後方に構え、軍は動かしていない。言われた通りにしたのである^^;。後世になって三国志演義ができていく過程で、周瑜ほど史実との落差が生じたキャラクターは珍しい。ここまでの落差が生じた主な原因は、周瑜が劉備一党に対して邪険にしたからである。周瑜が悪役になっていく過程で、本来演義では良い配役が得られるはずの魯粛まで、落差が付いた。ンでもって、現代では二枚目というイメージが膨張し、宝塚ですか?と言いたくなるほどの美少年になりつつある(笑)。んまぁ、目立つからいじられやすいんだろうな・・・と思わんでもない。 ▲▼