【 名門・周家 】
  • 周瑜、字は公瑾。廬江郡舒の人である。
  • 周瑜の考察は難しい。まず演義でも有数の有名人であり、三国志に詳しくない人でも周瑜の名前くらいは聞いたことがあるだろう。そして、周瑜は明らかにイメージが先行しているキャラである。そういう意味で演義と正史でのイメージの差・もしくはゲームや小説と歴史上の人物としてのイメージ差もかなり大きく、三国志初心者向けに書く場合と、ディープな三国志通向けに書く場合とで全然内容が異なってくる。さらに、どういうベクトルで描いても、すでに先行の考察が山ほどあり、目新しい新事実などもほとんどない。正直言って、物書き泣かせなのである^^;。しかし、そうは言ってられないので、孫ぽこなりの方法論で書くことにする。
  • 周家は成り上がりの孫家とは比べ者にならないほどの名門である。周家は後漢書に伝が立てられている周栄(章帝・和帝の時の尚書令)を祖先とし、周瑜の従祖父(じいさんの兄弟)の周景は、大将軍・梁冀の公府に招かれ、後に豫州刺史となり陳蕃を別駕(刺史の補佐官)に任命している。陳蕃と言えば、党錮の禁(宦官が清流派の名士を悉く禁固(終身の任官禁止)した事件)に大きく関わる清流派の代表格である。その他にも周景と交友のあった人物として李膺・荀緄・杜密・朱寓などが上げられているが、李膺は第一次党錮の禁で宦官のつるし上げのやり玉にされた人物であるし、その他の人物も清流派名士一派としていずれも八俊として評されている人物である。周景自身も163年に司空となると、無能な宦官の淘汰を進言しており、こうした清流派の一派の中心的人物であった。おそらく党錮の禁でなんらかの被害を受けているはずであり、166年に大尉となったあとは、政界から遠のいている様子が見える。
  • 周景の子・周忠もまた父と同様に大尉に任じられている。周瑜より一つ代が上なので、三国時代より前の人物かと思いきや、実は大尉に任じられたのは192年。立派な三国時代初期の人物である。董卓死後の李傕陣営で、賈詡と共に朱儁の入朝を画策したりしている。また、周瑜の父・周異は、洛陽県の令(長)をやっていた。
  • こうして見れば、いかに周家が名門の家柄であったか?がよく分る。問題は、なぜ周家と孫家が接近したか?である。名門同士の家柄ならともかく、周家と孫家では格が違いすぎるのである。次回はその辺を考察してみたい。