【 戦略家・周瑜 】
- 樊口で劉備と合流した周瑜らは、一路、陸口を目指す。陸口は長江防衛上の要所で、おそらく、ここを占領させると、柴桑まで陸路で攻められかねないという拠点である。だからこそ、陸口には魯粛・呂蒙・陸遜ら、呉最大の指揮官が駐屯した。一方、曹操軍も陸口を目指すが、一足早く、周瑜に取られたようだ。地図を見れば、樊口から陸口までの距離と、江陵から陸口までの距離はほぼ同じなのだが、長江を下る曹操軍の方が有利である。にも関わらず、周瑜が先んじたのには、曹操軍は大軍で動きが遅かったのと、水軍運用能力の差、土地の不慣れ、及び疫病の発生による士気の低下が原因だろう。そして、最初の戦線が開かれた場所が赤壁である。周瑜伝にも赤壁の戦いは遭遇戦である事が書かれており、火攻めがあった場所ではない。すでに疫病が発生していた曹操軍はこの遭遇戦に敗れ、長江の北側の烏林に陣を敷いた。周瑜たちは南岸に陣を敷く。対峙する事しばらくして、黄蓋が偽の投降作戦を進言、これが実行され、曹操の烏林の軍船の多くが焼き払われ、火の勢いは陸地の陣地まで及んだ。兵力的な損害はさほどでもなかったが、軍船に打撃を受けた曹操軍は、これ以上烏林にいても進むことができなくなる。戦略的意味を失ったのだ。むしろ兵力的な損害では疫病が猛威を振るっていた。ここに至って曹操は烏林を撤退。曹操は江陵(南郡)に曹仁・徐晃、襄陽に楽進を残して,許都に退却する。以上がほぼ史実であると思われる赤壁の戦いの詳細である。
- (注)周瑜伝には後に演義の元になったと思われる記述が多くあって面白い。周瑜伝に黄蓋が「曹操軍の軍船は船首と船尾がくっつきあった状態にある。」と言っている場面があり、これが龐統の連環の計の元になっている。だが、これは曹操が軍船をつなぎ合わせたという意味ではなく、おそらく、大軍が烏林に集結したため、狭い所に軍船が密集していた・・という意味ではないか?と思われる。船と船をくっつけてしまうと、行動が取れない(笑)。どうやって方向転換をすると言うのだ^_^;。曹操がそこまで兵法に反した事をするとは到底思えない。また、黄蓋の偽の降伏の手紙に「勝ち目がないのに、周瑜と魯粛だけが、浅はかな思慮からやっているだけ。」とある。つまり、黄蓋は周瑜との不仲を書きつづったので、ここから想像を膨らませて、苦肉の策という計略が出てきたような感じである。また降伏の使者に対する曹操の態度も慎重で、虚々実々の駆け引きを感じる場面だ。
- 焼き討ちの日に東南の風が吹いていた事もきちんと書かれている(江表伝の注)。この季節には普通、この地域では東南の風ではなく、南西の風になる事も事実らしい。ただし、長江の南で暖かい日が続くと冬でも東南の風が吹く事は現在の気象情報でも確認されているようだ。よって、周瑜らはそういう日を選んで決行した事は間違えなく、しかもそれを実行したのが、荊州出身の黄蓋という辺りが頷ける。ただ、演義ではそうは読まないから、諸葛亮が風を起こしたという逸話が出てくる訳だが、作り手としては、普段東南の風が吹かない所まで調べている訳で、大したもんだと思う。個人的には劉備一党から東南の風の告知があったと仮定するなら、諸葛亮より劉琦の方が納得が行く。まあ、あり得ない(笑)。
- 話を戻して。赤壁の戦いは周瑜の確かな状況把握によってもたらされた。だが、黄蓋の献策の持つ意味は大きい。深読みすれば、ここから周瑜という人の思考判断パターンが読めるのである。
- 周瑜は間違えなく勝算があったから開戦を主張した。だが、実際に曹操軍を撤退させる戦術レベルでの方策まであった訳ではないのだ。曹操を撤退させる戦術レベルでの発想は黄蓋の功績である。周瑜の功績は戦略レベルでの曹操軍の不利を把握し、勝機が十二分にあるという事を見抜き、降伏に傾く群臣を説得した点にある。この部分が孫策との違いなのだ。孫策はもちろん戦略眼も兼ね備えているが、むしろ戦術レベルでの天才的な閃きに長けている。周瑜はそっちの部分は実はそれほど得意というわけではない。相手の裏をかいたり、奇策を立てたりする事は周瑜自身はあまりない。だから赤壁でも黄蓋の進言が必要だったし、この後の江陵包囲戦でもそういった戦術レベルでの発想力のある呂蒙・甘寧と言った所の進言を採用している。つまり、周瑜は「確かな状況分析を根底とした戦略家」なのだ。だから、孫策と周瑜が組む場合、状況把握と戦術レベルでの発想の転換という二大要素が補完され、非常に強いタッグとなる。極めて理想的なコンビなのである。 ▲▼