【 孫策と共に 】
  • さて、孫策の江東征圧軍の中での周瑜の役割はどうだったのだろうか?記述を順を追って見ていきたい。
    • 周瑜は、孫策の配下に入ると、横江・当利を攻撃し、双方の城を陥落させ、さらに軍を進めて、秣陵を攻撃し笮融と薛礼を打ち破った。さらに方向を転じて湖孰・江乗まで下り、曲阿にまで侵攻すると劉繇は逃亡した。(周瑜伝)
    なんのことはない、孫策の進軍経路そのままである。つまり、部隊長、もしくは参謀としての役割だ。周瑜というとゲームなどの影響もあって、軍師というイメージが大きいが、実は周瑜は軍師という役割を果たしたことは極めて少ない。赤壁の時もその後の江陵征圧戦の時も、司令官としてである。もし、周瑜が軍師としての役割を果たしたとすれば、この孫策の丹楊攻略戦の時を除いて他にはない。牛渚砦の物資の存在を突き止めることや、劉繇軍の各部隊の行動を先読みして先手を取ることなどで、周瑜の才覚が大いに発揮されたであろうことは、想像に難くない。赤壁の戦いでも分るように、正確な情報収集・状況判断は周瑜のオハコの中のオハコである。逆に言うと、この丹楊攻略戦では、周瑜は常に孫策と行動を共にしていたので、単独の軍功というのがない。単独の軍功が記されているのは、朱治や呂範だ。この時点での周瑜の功績は、丹楊攻略に必要な兵・物資・軍船を用意したこと、正確な情報収集・諜報活動をやったであろうことの二点である。
  • 丹楊攻略戦後の周瑜の動きを追う。
    • 孫策は【これだけの軍勢があれば、私1人で呉・会を手中に収め、山越を平定するのに十分だ。君は戻って丹楊を固めてほしい。】と周瑜に言った。周瑜は丹楊に戻った。(周瑜伝)
    つまり、丹楊攻略戦後、周瑜は孫策とは別行動を取っている。この時期、同時に孫憤・呉景らも袁術の元に帰還させており、これらは孫策単独での呉・会の攻略を目指したということを指しているだろう。袁術に対して、呉・会での孫家の優位を確立するためだ。
    • (注)呉書の列伝は呉という勢力がすでにこの頃から存在したという観点で書かれている。実際には周瑜は丹陽太守の代理での参戦であるから、劉繇追放後は丹陽の統治に戻るので正解。微妙なのが孫策だろう。袁術から丹陽を攻略したら引き続き会稽も攻略せよ・・と指令を受けていたのかどうか?その事を呉書は一切書いていない。(孫策の独自判断という前提だから当然だが。)ただ、袁術の最終目標は江東一帯の制圧であるから、会稽の王郎を放置しておいて良いはずはなく、孫策が「このまま会稽を攻略します」と伝えれば、「可」となると思われる。
  • 一方、周瑜の方は、心情的にはともかく、立場的には完全に袁術陣営の一員であった。丹楊太守・周尚の代理としての参戦であり、その丹楊の攻略に成功した以上、丹楊に戻って治安維持に努めるのが道理である。さらには、丹楊は山越賊の存在もあり、決して治安の良い郡とは言えない上に、孫策は抹陵から東に向かって進軍したため、丹楊西部の六県は未統治状態だったのである。丹楊を攻略したのは良い物の、賊に統治権を奪われてしまったら元も子もない訳で、こうした意味からも周瑜は丹楊の維持に努める必要性があった。
  • 案の定、孫策が会稽攻略の乗り出した頃、太史慈が丹楊太守を名乗り、山越賊を糾合して反乱を起している。おそらく196年頃のことだ。太史慈の討伐は、会稽攻略を終えて丹楊に帰ってきた孫策によって為されるであるが、その間、ほぼ一年近く太史慈は、丹楊郡に割拠していた。同時期に祖郎という反乱勢力も丹楊に存在していた。当然の事ながら、周瑜は太史慈や祖郎と言った賊の勢力拡大を阻止して、丹楊東部の統治権を維持するという役割を担った訳で、主力が呉・会に出払っている中、ほぼ周瑜1人で丹楊東部の統治権を確保し続けた事になる。正史にはこうした地味な功績は記されないが、実は、呉・会討伐の間、丹楊を維持し続けた周瑜の功績というのは大なのである。