【 孫軍閥の再構築 】
- 周家と孫家の母方の呉家になんらかの血縁が存在するのかどうかは、推測の域を出ない物ではあるが、ここではその可能性の元で話を進めたい。実を言うと、朱家をふくめて、これらのグループは近い関係にある豪族グループではないかと思っているのだが、それは他伝で述べることに^^;。
- 舒で周家と孫家は共同生活を営んでいた。だが、孫堅の戦死というアクシデントにより、その共同生活も終わりを告げることとなる。孫堅が死ぬと孫家は舒を離れ江都に移り住む。なぜ舒を離れたのか?あるいは離れなくてはならなかったのか?については、理由は定かではない。
- 家長となった孫策が、長江を渡って北を見てみたかっただけなのか、それとも孫堅の死により周家の世話になることが事実上不可能となったのか?いずれにしても、孫堅の死が孫家の受難の時代を作り出したのは間違えない。明らかに、孫家を中心とした豪族グループの解体が行なわれているからだ。孫家は孫憤を中心としてはいるが、袁術旗下では呉景と孫憤はほぼ同格、あるいは呉景の方が上位である。朱治も単独で呉郡都尉となっているし(袁術の任命ではない。)、周家も別行動である。つまり、孫堅を中心とした豪族グループは、孫堅の軍事能力を頼りに集結した集団だったと言えるだろう。その孫堅が戦死した以上、すでにこのグループをまとめ上げる存在がいない。
- 周家の方に目を移すと、前述の周忠が大尉に任じられたのが192年。つまり、孫堅の戦死と前後してのこととなる。そして翌年の193年には、袁術の勢力範囲が南陽から淮南に移転してくる。この時期の孫家・呉家・周家はいずれも袁術の影響下にあったと考えて良いだろう。過小評価されがちだが、この時期の袁術の影響力というのは、非常に大きいのである。孫策はこの時期に袁術旗下に収まっているし、呉景も袁術旗下の丹楊太守となっている。周家はというと、194年頃、呉景の後を受けて、周瑜の叔父の周尚が丹楊太守になっている。つまり、周家も袁術派閥として存在していたと考えるのが妥当だろう。
- 194年に始まる孫策の江東征圧は、孫家の再興隆の始まりでもあるが、それを命令した袁術の側に立ってみると、袁術は、江東征圧、つまり対劉繇戦線に関しては、孫・呉・周・朱などの揚州豪族に任せていた・・・と考えるのが妥当だろう。自身は徐・豫に目を向けなくてはならない関係上、江東に関しては地元の士人たちに任せた方が何かと便利ではある。そういう関係から、孫策が江東征圧の軍を袁術から任されたと考えると、袁術からするとごく自然な選択であるとも言える。孫憤・呉景が失敗したので、同じグループに属する孫策・周瑜らに指揮権を譲渡した訳だ。そう考えると、呉景から周尚への丹楊太守の交替と孫策の江東征圧軍の開始の時期がほぼ重なっているのも分る。そして、孫策は周瑜に協力を要請、周瑜は丹楊太守・周尚の代理として参戦・・・・それが孫策の江東征圧初期の流れである。
- 孫策にとって、周瑜の参戦は非常に大きな出来事であり、孫策は周瑜を迎えて【君を見つけることができて、思いが叶った。(江東は征圧できたも同然だ。)】と言っている。もちろん、周瑜自身の才覚を評価してのことではあるが、それだけではなく、丹楊太守・周尚の協力も同時に得られるという意味を持つ。つまり、丹楊の兵力・物資の調達が可能となる。実際、周瑜は軍船・兵・物資を用意しての参戦であり、基盤を持たぬ孫策に取って、これほどありがたい支援はなかった。(とは言っても、この時期の丹楊は長江以南に当る地域はほぼ劉繇が抑えていた。よって、周尚が丹楊太守に任じられたと言っても、丹楊全ての利権を得られるという意味ではないが。)さらには、孫-周の二家の協力関係を再構築することが出来たという意味も持っているのである。こう考えると、孫堅の戦死により解体されていた、孫家を中心とした豪族グループの再構築が為されたのが、孫策の江東征圧開始の時であるというのがよく分る。実は、袁術の江東戦略の最大のミスは、孫策と周瑜に代表される孫家に近い豪族グループを一つの軍団として行動させたことにあるのではないだろうか? ▲▼