【 巴丘に死す 】
  • 周瑜伝を読むと、周瑜は孫権が蜀併呑に賛同したので、遠征の準備に取りかかろうとしたが、その途中で巴丘において死去した・・とある。周瑜の任地は江陵であり、巴丘で死去という事になると、周瑜は江陵に戻って軍を整える前、つまり江陵に帰る途中で病死した事になる。つまり、蜀遠征は計画の段階で頓挫していた。
  • 周瑜の天下二分の策は劉備を呉に留め置く事が前提であり、孫権が劉備の荊州領有を認めた後であれば、その戦略的意味はない。それは素人でも分かる。よって孫権が荊州譲渡を決定したのは、あるいは周瑜死後の可能性も高い。
  • 周瑜の死因については諸説がある。(【4Zhuges'traces】さんなどの周瑜暗殺説を参照。)可能性としては無視できない物があるが、私の心情的な所から言わせていただくと、どんなに巧妙な罠であれ、それがテロリズムに類する物であるならば、いずれ書によってその悪事は暴かれるはずだ・・・と思っている。だから、周瑜の暗殺を訴える書が存在していない以上、それについては私は沈黙を守りたい。周瑜は病死したのだ。周瑜は江陵戦で負傷した後、死期が近づいているのを理解していた。よって孫呉が天下統一できる、純粋戦略上最良と信じる道を一刻も早く実行しようとした。そう信じている。
  • おそらく、周瑜が江陵に向かう途中で病を発し、余命幾ばくもなくなった時点で、天下二分の策は事実上、不可能となった。天下二分の策の具体案は周瑜の頭の中にある。他人が代用できる物ではない。となれば、すでに後任は決まっている。呉において天下三分の策を実現できる男、魯粛。彼しかいない。状勢は変わったのである。
  • 周瑜は、後任に魯粛を推し、ついに天に召された。時に三十六歳。孫権は周瑜の死去を聞くと、喪服をつけて哀哭し、周瑜の棺が呉に戻ると、撫湖まで迎えに行った。そして涙を浮かべて「周瑜は王者を補佐する才能を持っていたが、思いがけなく短命で終わった。私は誰を頼りとすれば良いのか。」と言ったという。また、孫権が後に帝位についた時、「私は周瑜がいなかったら、帝位につくことはできなかったのだ。」とも言った。
  • さて、改めて周瑜伝を考察し終えた感想を。
    周瑜はその生涯を武官として終えた。意図的に政治に関わるのを嫌った感すらある。彼は純粋なる軍事戦略家だった。政治的駆け引きや外交は彼には向いていないし、周瑜自身も関わろうとしなかった。大局を読み、正確に状況を分析する事で、生まれる戦略。それが周瑜の才である。ただし、その才を用いる者としては、同様に軍事的資質を持ち、周瑜の才を補完してくれる者が最良であった。司令官としての周瑜の才が君主を上回るのは、周瑜自身に取って好ましい事ではない。周瑜は軍事行動を行うに当たって、孫家の一族を補佐する形を好んだ様子があることからも、彼自身がトップに立つ気はなかったように思われる。だが、もし周瑜が若死にせず、天下二分を実現し得たとして・・・・その時は陸遜と同様の運命をたどったような気がしないでもない。周瑜にとって、最良の君主とは、若き日に巡り会った朋友であった。周瑜の天下二分の策は、孫策でこそ、その効果を最大限に発揮しうる。守勢に強く、外交戦略を駆使して戦う孫権は天下三分の策向きの君主だった。そして、その参謀は外交的政治的資質に優れた魯粛や守勢に強い軍事司令官・陸遜が向いていた。そういう意味では、周瑜は死すべくして死んだという感もある。周瑜が蜀制圧の遠征軍を起こしたとして・・・その時は、雒県で流れ矢に当たって死んだのは、龐統ではなく周瑜ではなかっただろうか?龐統もまた三十六歳でその生涯を終えた。希代の軍事戦略家の死がそれを暗示しているような妄想に捕らわれてしまうのである。