【 脱出 】
- 袁術の元に戻った周瑜であるが、周瑜伝には【袁術は周瑜を部将として配下にしようとした】とある。しかし周瑜は居巣県の長になりたいと願い出て、結局、袁術はそれを受け入れた。居巣は巣湖(合肥・濡須の近辺)の畔にあり、長江流域であった。軍部に身を置いてしまうと、いざと言うときに行動がしにくいのである。孫賁伝にも軍部に身を置いてしまった孫賁が、結局、妻子を捨てて江東に逃亡しなくてはならなくなったという哀れな事例が書かれている。つまり、周瑜が居巣県の長を願い出たのは、いずれ起きる孫策の丹楊に対するリアクション待ちだったと考えて良いだろう。この辺り、孫賁の悲劇を見ても、周瑜の先見の明はさすがと言った所だ。また、この居巣県長をやっていた時期に、周瑜は魯粛と交友を結んでいる。魯粛伝には、例の魯粛が二つある蔵のうち一つを気前よく周瑜に与えた逸話が載っているが、これを事実的に判断すれば、周瑜は廬江近辺の有力豪族と渡りをつけていたという事と思われる。そうした反袁術の方向に傾きつつある豪族の一人に魯粛がおり、周瑜と魯粛はこの後江東に脱出する事となる。
- さて、会稽討伐から帰還した孫策は、早速、丹楊太守として赴任した袁胤の追放に取りかかる。孫策は徐琨に命じて袁胤を丹楊から追放、同時に袁術麾下の孫家ゆかりの人物の切り崩しに取りかかる。これは孫家の袁術からの独立を意味していた。これに対して、周瑜・孫賁・呉景ら孫家ゆかりの人物たちは、それぞれに多少の温度差を持ちながらも、結局、袁術を捨て江東に逃れてくる事となる。
- 孫策は彼らを優遇したが、周瑜に対しては特に熱烈歓迎をした(笑)。周瑜が江東に脱出してくると、孫策は自ら周瑜を出迎え、建威中朗将の任を与え、その場で兵士2000名、軍馬50頭を与えた。当時孫策は未だ将軍職にはなく、中朗将の位が周瑜に与える事のである最高位であっただろう。好待遇と言って良い。また、呉景・朱治らが太守として任じられたのに対して、周瑜は孫策麾下では軍部として働いている事も分かる。周瑜が太守として任じられなかったのは、孫策は周瑜に軍人として期待していたという事と、もう一つは周瑜の若さがあるだろう。当時、周瑜は24歳。ちっょと太守になるには若すぎるのである。と言いつつ、同い年の孫策は自称・会稽太守だが。この若い英雄二人は、孫郎・周郎(若様って感じのニュアンス)と呼ばれ、江東ではアイドル状態だった(笑)。
- さて、再び孫策の元に戻った周瑜であるが、時代は急転しており、息をつく暇もない。早速、周瑜は牛渚の守備を任され、袁術の反攻に備える。その頃、孫輔も歴陽に布陣しており、袁術との間はちょっとした緊張状態にあった。同時に孫策は、未統治であった丹楊西部六県の平定を開始。太史慈・祖朗らを討伐する。祖朗については袁術の関与が見られ、当時、孫策軍は太史慈・祖朗らを討伐する一方で袁術の出方も警戒する必要があったのだ。つまり、周瑜は太史慈・祖朗討伐には参戦していない。太史慈・祖朗討伐に参加したのは、呂範・程普らである。
- 丹楊西部六県が制圧されると、周瑜は春穀県の長となる。春穀県は丹楊西部にあり、反乱が起きていた地域であろう。この任命も反乱鎮圧能力を買われての事だ。こうした反乱が起きやすい県の長として程普・黄蓋・周瑜ら軍人を長として配属するというやり方は、孫呉政権には良く見られる形である。
- この辺りの孫策の周瑜起用法は、程普らの起用法と違っていて面白い。程普の使われ方は、明らかに先鋒・陣頭指揮能力を買われている。逆に周瑜の使われ方は、後方支援・留守預かり・諜報担当である。もう一人、この頃、部隊指揮官として活躍した呂範は、別働隊指揮が多い。つまり、程普はもっぱら戦場での強さを買われたのに対して、周瑜は広い視野で全体を把握して行動できる点を買われているのである。また、別の視点で見れば、袁術との関係がある以上、周瑜を表立って行軍に使えないという事もあったかもしれない。
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