【 天下二分の策の裏側 】
  • 周瑜の天下二分の策。我々が後からそれを知ると、どうも戦略的に無謀であるかの印象を受ける。荊州に劉備がいるのに、それを飛び越えて蜀を攻略。そもそもその時点で無理があるし、関羽・張飛を周瑜が部下として使う気だったというのもそんな事が可能だったのか?と疑問に思わざるを得ない。さらに周瑜がいない間、呉の防衛はどうするのか?こういう点を考えた時、天下二分の策は机上の空論のような印象を受ける。
  • だが、何度か述べてきたが、周瑜は正確な状況分析を根底とする極めて正道的な戦略家である。赤壁の時もそうだった。強大な曹操軍にわずか数万の兵で対峙するなど、無謀としか言いようがない。少なくとも常人が見ればそうだ。だが、周瑜はそこに確実な勝機を見いだしていたからこそ、抗戦を主張した。では、今回はどうだろう?天下二分の策の勝機とは?
  • まずは、周瑜の天下二分の策の具体案が載っている周瑜伝の記述を見てみる。実は周瑜がまず第一に主張した事は、劉備の荊州の領有を認めるな・・という事だった。つまり、前回書いたように、周瑜が天下二分の策を提示した段階では、まだ劉備は独立していなかったのである。
    • 【周瑜の進言】
      劉備は梟雄で人の下にいつまでもいる者ではない。よって、遠い将来の事を考えれば、劉備を呉に留め、宮殿を建てたり、美女や愛玩物を宛ったりして丁重に楽しませてやって、配下の関羽・張飛らは別々の土地を宛い将として用いれば、天下統一の覇業も確実な物となる。今、劉備に基盤を与えれば、いつまでも池の中に留まらず龍となりましょう。
    まず、この進言を見て普通に感じるだろう事は、周瑜は劉備を梟雄、つまり野心のある人物と評しているのに、一方で呉に素直に駐在させようとしているという矛盾である。梟雄であるならば、素直に呉に留まるとは思いがたい。そんな事を予想し得ない周瑜であるとは思えず、実は周瑜は、孫権にも言えなかった、もっと辛辣な事を想定している可能性があるのではないか?と感じる。
  • 孫呉の最大の弱点とは何か?孫呉の最大の弱点とは、すなわち孫家そのものである。家柄が悪すぎる。その孫家の家柄の悪さが、様々な制約を孫呉に要求し続けた事を知らない周瑜ではない。戦いに勝ち、天下二分を実現したとても、その孫家の正当性のなさが最大の障害として立ちはだかる。
  • では、どうするのが一番良いか?そこにドラスティックに周瑜はメスを入れようとしていたのではあるまいか?孫策は献帝保護を目的として許都襲撃を計画した可能性がある事は以前述べた。だが、そんな危険を冒さなくても、今孫権の元には、皇帝直々の曹操誅殺の勅まで得たことのある中山靖王の子孫という人物がいる。なんの事はない、劉備である。献帝は曹操の傀儡となり果て、もはやなんの権限もない。いずれ曹操は漢を滅ぼす。その時、なんの問題もなく、反・曹操の旗頭となれる人物は、劉備しかあり得ないのである。だからこそ、曹操は荊州制圧の後、劉備一人を捕捉せんとしたのであり、後に孫権は恥を捨て魏に臣従して官位を得なければ皇帝にはなれなかった。であるならば、孫呉はどうすれば良いか?
  • おそらく、それこそが周瑜の出した天下二分の策の原点であると思われる。すなわち【劉備を旗頭にせよ】と言うことだ。劉備を呉に留めよ・・というのは言葉を濁した言い方だ。劉備が梟雄であり、普通に配下として仕える人物ではない事は、周瑜自身が進言している。であるにも関わらず、周瑜は劉備を呉に留めようとしている。しかも今までの経緯を見れば、劉備の忠実無比な部下である事が自明の関羽や張飛まで、【自分が扱える】としている。もし、孫権が劉備を呉に軟禁したのであれば、そのような事が可能である道理がない。だが、軟禁ではなく、(帝を奉るための)宮殿を造り、(帝にふさわしい)美女や愛玩物を提供するのであれば、話は違ってくる。遠い将来の事を考えれば・・・とはそういう意味ではないか?遠い将来とは、曹家が漢を滅ぼした時の事である。
    • (注)原文「宜徙備、置吳、盛爲築宮室、多其美女玩好、以娛其耳目」。
      むじんさん訳「劉備を移して呉に留め、盛大に宮殿をこしらえ、彼のために美女や娯楽を増やし、そうして彼の耳目を喜ばせてやるがよろしゅうございます。」。
      問題は「宮室」という言葉である。手元の漢和辞典で意味を調べると「帝王・皇帝の御殿」と出る。また【漢籍電子文献資料庫】様で検索すると、陳寿・三国志内で「宮室」という言葉は70回ほど出てくる。全てを確認した訳ではないが、私が見る限り、「宮室」=「皇帝の御殿」=「宮殿」である。つまり、普通に原文を見れば、劉備を軟禁というだけではなく、最低でも王に封じてそれなりの地位を授けるという意図は読み取れる。でなければ「私が関・張を扱う」などということ不可能だ。

      また周瑜伝の最後には孫権の意味深な言葉が出てくる。
      「私(孫権)の公瑾殿への思いは深いものであって、どうして含むところがあろうか。」(全琮が周瑜の一族にあたる周護を部将にしたいと申し出たときの言葉)
      周瑜の息子は一人は若くして死去し、もう一人も罪を得ている(後に許されているが)。で分家の子孫である周護も結局、採用されていない。文面を読む限り「(孫権は周瑜に)含むところがあると見られている」とも読める。それに対して「含むところなんかないよ」と返信しているのだ。含むところ・・とはなんだろう?それこそ「劉備擁立を促した」からではないか?とも読める。
  • 周瑜はおそらく、純粋戦略的に天下統一の可能性をそこに見いだした。次に周瑜伝の天下二分の策の具体案を見てみる。
    • 孫瑜様と共に蜀を奪う計画をお認め下さい。蜀・張魯(漢中)を併呑し、その上で孫瑜様に蜀に留まっていただいて、私は孫権様と共に、襄陽を拠点として曹操を追いつめ、同時に馬超と同盟を結べば、北方制覇も夢ではないのです。
    まず、一般的に周瑜が天下二分の策を実行した際には、周瑜が蜀で独立するのではないか?という懸念が指摘される事が多い。だが、この進言を見れば、あくまで蜀に留まるのは孫一族の孫瑜であり、その懸念を孫権が抱くであろう事は、実は周瑜は予想済みなのである。だから孫瑜を旗頭に立てた。また、最大の攻撃拠点を襄陽と定めているのも、純粋軍事戦略的に最も成功率の高い作戦である。
  • また、周瑜の蜀を奪う計画は、現実性があったのか?という点も指摘される事がある。だが、これについては、実に単純明快に答えがでる。現実性は多いにあった。これまた、なんの事はない、劉備は実際に成功している。さらに言えば、周瑜は劉備がやったよりも、もっと素早く蜀を奪う自信があったのではないだろうか?実際の蜀制圧の戦略を立てたのは龐統であるが、龐統は劉備に対して三つの策を提示し、劉備はその中策を取った。では、龐統が立てた最上の策とは何か?と言うと、【精鋭を選び、成都に直行し急襲する】、つまり【本拠直撃】である。成都の防御態勢は万全ではなかったのだ。これを周瑜が見逃すとは思えず、おそらく周瑜は蜀制圧の戦略としてこの策を用いるはすだ。短期間に成都を制圧できるという勝算があったのではないだろうか?
  • では、周瑜が蜀を併呑する間の呉の防衛はどうか?というとこれまた、歴史がある程度の答えを出している。揚州・荊州の長江流域をすでに押さえている以上、そう簡単には防衛ラインを突破する事はできない。自分から攻めあがろうとせず、専守防衛に専念すれば、周瑜がいなくても十二分に防衛可能なのである。呂蒙あたりが残っていれば、拠点防御面で問題はないと思われる。さらに、先述したようにかなり短期間に蜀を制圧できる目算が立っているならば、さほど揚・荊の防御に力点を置く必要もない。周瑜は蜀を制圧したら荊州に戻り、襄陽を攻める気なのだから。つまり、天下二分には、またとない好機であったのではないだろうか?
    • (注)周瑜の北方制覇の戦略として、蜀から攻め上る案と揚州・合肥を落として中原に躍り出る案がなくポイントを襄陽としているのは、周瑜の地勢・状況分析力の賜物だと思う。蜀の桟道を通って北に出る、揚州から攻め上がり合肥・寿春を落とすという二つは非常に難しい。その逆も真であって、合肥から揚州に攻め入るのも、雍州から蜀に攻め入るのも難しい。つまり、防衛地形なのである。諸葛亮も孫権もその部分で躓いた。逆に襄陽方面は、関羽が成功しかけた事があるのと、呉の方でも襄陽城を落としたというレアな武将がいたりする。攻め落とせるとしたらここしかない。
  • このように考えた場合、周瑜の天下二分の策は、孫呉が天下統一を成し遂げるためには、これしかないと言って良いほど、純粋軍事戦略的に精錬された策ではなかっただろうか?ただし、これが天下二分の策の真相だったとして・・・孫権が周瑜の提案を受け入れなかったのは、当然至極と言える。天下統一は二の次として、孫権を皇帝とする事に目標を置く魯粛案と、天下統一を目標として、名目上のトップとして劉備を担げという周瑜案。どっちを孫権が受け入れるか?その後を見れば一目瞭然だった。この辺りに軍人・周瑜と政治家・魯粛の政治感覚の差が存在している。