【 周瑜外伝 】
- 今回は周瑜伝で色々と書ききれなかった部分の捕捉です。
- 1.周瑜と蒋幹
三国志演義でも有名な、周瑜を寝返らせようとして曹操が周瑜と同郷の蒋幹を使者として送る場面の記述が正史にもあります。ただし、場面は赤壁ではなく、時期不明です。- 曹操は周瑜が優れた才を持っていると聞くと、揚州の役所に指令を出して、周瑜と同郷の蒋幹を送った。蒋幹が周瑜の所に来ると、周瑜は「蒋幹殿、誠にご苦労様です。曹操のために遊説家として来られたのですね。」と言う。蒋幹は、「私は貴方の評判を聞いてやってきたのに、遊説家とは酷いじゃないですか?」と言う。しかし、周瑜は「私は弦を聞いて音楽を聴けば、それが正統的な音楽であるかどうかを聞き分ける耳を持っているのですよ。」と取り合わない。周瑜は蒋幹に軍事物資や施設を見せた後、「男子たる者、自分をよく知って下さる君主に巡り会い、表面的には君臣であっても、実際には肉親同様の恩義を結び一心同体となった以上、例え蘇秦や張儀が生まれ変わって遊説に訪れても、私の心を動かすのは無理でしょう。ましてや貴方程度ではどうやって私の心を動かすというのですか?」と言う。これを聞いた蒋幹は説得を諦め、言葉で孫権と周瑜の間を裂く事はできないと報告した。それを聞いて中原の士人たちは、周瑜をますます重んじるようになった。
- 2.周瑜に負けたのなら恥とは思わぬ
赤壁で敗退して曹操が言ったという言葉です。これはちょっと出来過ぎの部類ですから、江表伝の注かと思いきや、陳寿の本文。同じ本文に曹操が孫権に宛てた手紙として「赤壁では、たまたま疫病が流行したため船を焼いて退却したのだが、結果として周瑜にこれほどまでの虚名を得させる事となった。」と述べています。曹操が孫権に手紙を書くとなると、212年から213年にかけての合肥・濡須での激突の時が有力ですが、もしそうだとしたら、これはすでに周瑜死後の事です。 - 3.周瑜の音感
これはもう有名な話ですが。- 周瑜は音感が実に優れていて、酒を飲んでいても、演奏に間違えがあると、必ずそれを聞き分けて演奏者を振り返った。当時の人はそれを見て「曲に誤りがあると周郎が振り返るぞ。」とはやり言葉にして言い伝えた。
- 4.冷遇される周瑜の子孫たち
詳しくは、呉書外伝で述べますが、周瑜の子孫というのは孫呉では重用されてません。周瑜には二男一女がいました。娘の方は孫登の嫁となります。息子の方は周循と周胤と言いましたが、兄の周循の方は周瑜と似た風があって期待されたようですが、父同様に若死してます。周胤の方はどうも素行が悪かったようで、盧陵郡に配流されています。諸葛瑾と歩隲は、周瑜の功績を思い出して寛大な処置を・・・と願いますが、孫権はこれは周胤自身が父の名を汚さないように改心するための薬なんだから、聞くわけにはいかないよ・・・と言ってます。これは孫権の言い分が筋が通ってますね。父が偉大だったからと言って息子は素行不良でも良いはずがない。孫権も一度は周胤を偏将軍に任じている訳ですから、これは自業自得という物です。ただ政治判断的に言うと、豪族が世襲的に力を持っていくのを孫権は嫌っていた感があります。先代が偉大であっても、本人に問題があるなら使わない。その辺は孫権は一線を引いているようです。
▲ -周瑜伝 了-