【 豫章制圧 】
  • 沙羨で黄祖を破った孫策軍であるが、江夏制圧は黄祖の前に断念せざるを得なくなった。そして孫策は豫章の制圧へと、行軍のベクトルを修正することになる。
  • 豫章郡の当時の情勢は、混乱極まるのであるが、孫策の廬江攻略・黄祖討伐の頃、劉繇が病死している。その後、豫章太守となったのが華歆であるが、華歆は豫章郡全土を統括するに至らず、盧陵では僮芝が盧陵太守を自称していた。
    • (注その1)盧陵はこの時点ではまだ郡ではなく、豫章郡制圧後に孫策が豫章を分割し豫章と盧陵に分けた。よって、この時点で僮芝が盧陵太守を名乗っていたというのは、あくまで自称。しかも捏造(笑)。しかし、広大な豫章郡を統治するのに南北で分けると言う孫策の発想は、たぶんに僮芝が盧陵太守を名乗っていたという部分にインスピレーションを受けていそうである。
    • (注その2)孫策伝を書いたときは、おかしいと思って、劉繇が死亡したのを197年頃とした。(主な理由は太史慈が豫章偵察を行った時、すでに劉繇は死亡していたから。時系列的にその辺だろうと判断。)しかし、視点を変えて、太史慈が豫章偵察を行ったのが黄祖討伐の後であるとすれば、流れ的にはおかしくはない。ただし、その場合、太史慈は孫策と共に黄祖討伐に参加していたと考えるのが自然ではある。(もし太史慈が丹楊にいたとしたら、孫策はわざわざ丹楊から太史慈を呼び寄せて、豫章偵察をさせた事になる。)しかし、黄祖討伐軍の参加武将の名の中に太史慈はなく、留守役という感じを受ける。うーん、分からん。
    • (注その3)この注釈という方法は楽で良い(笑)。文の整合性を考えずに、後から付け足せる(おい)。よくよく太史慈伝を見てみると、太史慈も黄祖討伐に参加したと思わせる記述がある。太史慈は麻保という所で反乱討伐をしているのだが、その麻保というのは、場所から言うと完全な江夏。夏口を超えて、烏林の辺りに近い。そんな所の賊を討伐するとしたら、この黄祖討伐の時以外に考えられない。すでに太史慈は折衝中郎将であるから、軍を率いていてもおかしくはないのであるが、周瑜らに比べると、その保有兵力は多くはなかったのであろう。
  • 周瑜と関係のない話が続く(汗)。
    華歆は、当時すでに曹操とよしみを通じていた孫策が来ると、刃向かう理由もないという事で降伏。孫策の上客となる。という訳で、豫章の仮の制圧はこれにて終了。孫策は江東に引き返す。丹楊・呉・会稽同様、残るは反乱勢力の制圧になる。豫章には反乱勢力が多く、色々と大変な土地なのであるが、現時点で最大反乱勢力は、自称・盧陵太守の僮芝であった。この僮芝討伐のために豫章の郡都・南昌に残ったのが、孫賁・孫輔、及び周瑜である。
  • 孫賁と孫輔は、この時点で豫章太守・盧陵太守に任じられており、呉景同様、郡の統治を任された格好だ。同時に呂範は鄱陽の反乱勢力討伐に出向く。ちなみに太史慈はこの後、建昌都尉として豫章郡の西部の守備に付く。なんとなく、周瑜伝と言うより、孫策の豫章制圧の経緯の補足をしているようだが、気にしないように(笑)。黄祖討伐とその後の孫呉の各部将の配置が結構面白いので、それについて述べたい。
  • まず、皖城・西塞山・沙羨と続く、一連の行軍には孫策軍の主立った部将ほとんどが参戦している。丹楊・呉・会稽の守備はどうした?というくらい(笑)。残っているのは、呉に朱治、丹楊に呉景、会稽に賀斉、そんなモンである。まず、黄祖討伐まで参加した武将が、主立った所で孫賁・孫輔(劉勳討伐の時は別働隊となった。)・徐琨(黄祖討伐の時に戦死)・太史慈(麻保の賊を討伐する様子が太史慈伝にある。)・主役^^;の周瑜に、程普・黄蓋・韓当・蒋欽・周泰・陳武・董襲・呂範・・・とこの時点で軍属にあった者はほとんど参戦している。で、黄祖討伐の後の諸将の動きであるが
    • 豫章郡都の南昌に駐屯・・・孫賁・孫輔・周瑜
    • 鄱陽の反乱軍制圧に向かう・・・呂範・韓当
    • 丹楊に帰還・・・程普・黄蓋
    こんな所になる。その他の将については、この時点でまだ一端の将としては不十分であり、詳細は不明。ただし、蒋欽は葛陽県の長に、周泰は宣春県の長にそれぞれ任じられており、豫章の反乱鎮圧の一環に組み込まれている。
    • (注)細かいことになるが、程普・黄蓋が丹陽に帰還というのも面白い。程普は石城に軍を留めたとあり、黄蓋は石城県の治安安定に尽力している様子が書かれている。会稽太守・孫策の部下でありながら、丹陽郡に帰還しているのだから、もうこの辺りから孫軍閥は確実に存在している。また上にあるように豫章・盧陵太守を孫策が勝手に任命しているように見えるが、実際には曹操の許可は貰っているだろう。それでもかなり孫策側の意向がそのまま反映されており、半独立状態と言って良い。交州の士燮のような状態にあると言って良いだろう。曹操からすると、上手にこのグループをコントロールしながら、手懐けたかったのではないかと思われる。
  • とりあえず、この時点で軍属のトップ3は周瑜・程普・呂範の三名であった。孫賁・孫輔については、豫章・盧陵の太守となる事が内定していたと思われるので、それを除けば、僮芝討伐の主力として孫賁・孫輔の補佐を任されたのが周瑜、豫章のもう一つの反乱勢力の拠点である鄱陽討伐の主力となったのが呂範、未だ情勢の安定しない丹楊西部の警備を任されたのが程普という事になる。このあたり、この三名をトップとしながらも、一番重要な所には周瑜を宛てているのが分かる。呂範はホント別働隊指揮が多い。程普は本陣の先鋒役と言ったところか?
  • 話がずいぶんと逸れましたが、僮芝討伐の続き(^^ゞ。
    南昌に駐屯する孫賁・孫輔・周瑜の三名のうち、最も上官でありながら最も孫策の意図を理解していないのが孫賁だったようで、孫策はわざわざ【貴方をここ(豫章)に置くのは、僮芝討伐のチャンスを狙って、いざとなったら攻め落とすためですよ。】と注文をつけている。周瑜を補佐につけたのも、孫賁の状況判断力を孫策があまり評価してなかったからだろう。いわば、軍師役でありお目付役である。周瑜を孫賁のお目付役につけたのは大成功だった。しばらくして、僮芝が病にかかったとの情報を入手すると(この手の諜報戦略は周瑜のオハコ。)、一気に僮芝討伐に取りかかり、周瑜は巴丘まで、孫輔はさらに軍を進めて盧陵を制圧した。ここに孫策の豫章併呑は完了する。