【 英邁闊達 】
  • 孫策。字は伯符(はくふ)。ここから書かれる孫策伝は,孫策が江東平定の軍を起こして謎の死を遂げるまでのわずか6~7年の記述が大部分を占める。孫策が死んだのは26歳の時であり,歴史的に見てもこの若さで死去した人物がここまでの功績を上げた例は極まれであり,いかに孫策という人物が特出していたかが分かるのである。(まあ呉の人物は孫策に追従したわけではあるまいが,周瑜・呂蒙と若死が多い。それでも孫策の場合は特別である。)
  • 孫策伝の冒頭は孫策が独立するまでどこに住んでいて何をやっていたかの記述に終始する。まず孫策が生まれたのは,父孫堅の生まれ故郷である富春(ふしゅん。長江の南,会稽郡の近く)のはずである。生まれたのは175年。孫堅が許昌の乱を鎮圧した後になる。しかし孫堅が義兵を挙げると同時に家族は舒(じょ。長江の北岸,廬江郡)に移り住むことになる。この義兵を挙げたというのは黄巾討伐の事だ。この時孫策はおよそ10歳。裴松之の注には孫堅は朱儁に従軍した時に家族を寿春(じゅしゅん。長江北岸,その頃揚州の州都であった。)に住ませたとあり,その後周瑜に薦められて舒に移り住んだとある。いずれにせよ,孫策は10そこそこで周瑜とめぐり合っている。孫策と周瑜の仲は良いというより,すでに兄弟のようなもので,注の中にも『二人の友情の堅さは金属をも絶ち切るばかり』だったとある。また周瑜家は先祖に大尉(最高位の三公の一つ)を出した名家で,孫策の家族を自分の屋敷の一つに住ませて必要な物を分け合って暮していたとある。家族ぐるみの付き合いだったわけだ。
  • 二人はこの頃からすでに非凡さを発揮しており,名のある人物たちと交わりを結び評判は広く伝わっていた。二人を称して英邁闊達(えいまいかったつ)とあり,二人とも優れた容姿をしており自他ともに認める良い男で,しかも気風が良く何か人を引き付ける魅力があったのだろう。陳寿の本文にも孫策の人となりを称して、秀でた容姿をそなえ,談笑を好み,性格は闊達で他人の意見を良く聞き入れ,適材適所に人を用いたので士人も民衆も孫策に会ったことのある者はみな,誠心誠意,命を賭けて従った。とある。
  • 孫策が父孫堅より優れている点の一つに人を引き付ける魅力がある。もちろん孫堅が魅力がなかったというわけではない。孫堅もその人間的カリスマにより程普・黄蓋・韓当・祖茂・朱治などの人材が配下に募っている。が孫策の場合は父より早世であるにも関わらず,周瑜を始め呂範・張昭・張紘・周泰・蒋欽・陳武・董襲・呂蒙・太史慈などなど,呉の礎となるべき人材をわずかな間に旗下に収めているのである。これは孫策が積極的に新しい人材を求めたこともあるが(実際,孫策の推挙を断り,魏に行った人物たちもいる),孫策に自分が従うべき人物としての魅力がなければありえないことだ。曹操も人集めが趣味と言われるくらい人材を集めているが,孫策は曹操と比べても遜色ないか,むしろ上回るペースで人材収集に成功しているのである。(孫権の場合は人材収集能力は曹操より劣る。孫権は人材活用の能力が際立っていた。)
    • (注)このあたりにもゲームの感覚がw
      確かに、呉書に伝のある人物で、孫策期に参入した人物は多い。孫堅期となるとかなり限られる。なぜか?というと孫堅はあくまで袁術旗下の軍閥であったのに対し、孫策は袁術旗下から独立を成し遂げ、孫呉勢力の方向性を明確に打ち出した、という違いである。孫堅期の人物は朱治・徐琨等、一部の例外を除いて、たたき上げの武人である。軍閥なのだから当然だ。対して孫策も軍閥としてたたき上げの軍人を多く育成しているが、それに加え、江東に割拠するという明確な方針を打ち出したことにより、多くの人材が孫呉勢力に参入している。
  • 孫策は呉周辺の各地を転々としながら,若年のうちから英雄としての気風を含み,孫堅の後を継ぐものとして十分に期待されながら成長していった。が・・・・・。その雌伏の時代は早くも終わりを告げる。父孫堅が荊州で突然の戦死をしたのである。孫策,17歳の時である。