【 戦いの終焉 】
  • 黄祖は劉表軍の揚州方面司令官である。夏口に赴任して以来,黄祖は劉表旗下ではあるものの,ある程度独断での軍事権を得ていたようである。黄祖の役目は隙があれば揚州に攻め入り,領土を刈り取ることである。孫策は豫章まで来たついでに,黄祖を叩き今後の憂いを取り除く事にし,沙羨(さい)まで軍を進める。それに対して黄祖は劉表に援軍を求め,劉表からは劉虎(りゅうこ。劉表の甥)と韓稀(南陽の武将)らの率いる長矛隊を送り出す。
    • (注)シツコイですが、違いますw。今後の憂いを取り除くためでも、豫章まで来たついでに江夏を攻めたんでもなく、江夏を皮切りに南荊州を制圧する計画である。豫章の方が「ついで」である。
  • 黄祖はこの戦いで真面目に戦う気があったかどうか大変疑問である。なにせ相手は飛ぶ鳥落とす勢いの孫策であり,しかもそれが父の仇とばかり,おもだった部下を引き連れて来ているのである。しかも劉勲の援軍に向かわせた,息子の黄射(こうしゃ)は,援軍が間に合わず慌てて逃げて帰っている。士気の面でも相当に不利であった。身の危険を感じたのか,黄祖は援軍としてやってきた劉虎と韓稀の部隊を先鋒にして,自分は後方で様子見をする。はたして夜明けに開始された戦闘は孫策軍の圧倒的優勢となり,午前9時くらいには,すでに先鋒の劉虎・韓稀は討ち取られ,黄祖軍は敗走状態となった。
  • 孫策としては,父の仇・黄祖を討ち取りに追撃したかっただろう。しかし,孫策には先にやっておく事があった。豫章の平定である。まずは虞翻を豫章太守・華歆の元に送り,投降を勧めさせる。華歆としても,孫策がすでに漢の正式な将軍・太守となっている以上,従わざるを得ないと思ったのか,素直に投降を受け入れる。しかし豫章はそれだけで制圧できる郡ではなかった。豫章は広大である上に,各地に反乱勢力が点在していたのである。
    • (注)シツコイですが、全部違いますw。父の仇だから討伐したのでも、豫章制圧のついでに攻めたのでもなく、「江夏制圧」が目的です。黄祖に真面目に戦う気がないはずもなく、江夏を制圧されたら南荊州が落ちるので、「必死になって」戦っています。負けるわけにいかない黄祖は、江夏城を死守しました。だから後方(城)から一歩も出ませんでした。野戦では蹂躙したものの、黄祖が閉じこもった江夏城を落とすこと叶わず、孫策の荊州制圧の野望は潰えたのです。笮融の時と同じです。孫策と戦うことになったなら、何も考えず、城に閉じこもり防御に徹するのが最善の策です。
      呉の立場から考えると、黄祖という人物はもっと評価されて良い人物です。孫堅を戦死させたのも黄祖、孫策の南荊州制圧の野望を打ち砕いたのも黄祖、魯粛の覇業論の大きな誤算となったのも黄祖です。派手なことはしませんが、確実に自分がすべきことを徹底してできる将でしょう。ある意味、三国志の流れの一端を作ったのは黄祖です。もし江夏を守っていたのが黄祖ではなく凡庸な将だったら、孫策の南荊州制圧は完成し、大きく勢力配置は変わっていました。
      で、華歆ですが。江夏制圧がならなかったので、孫策は方針を転換し、豫章に目を向けます。豫章に孫呉勢力外の太守がいたのでは、江東平定が完成しないからです。しかし、そもそも孫策も華歆もこの時点で立場を同じくしているので、戦ってはならない状態です。孫策としては降伏させる必要があり、その状況判断のために太史慈を向かわせています。そして華歆が太守の座を退き隠居するとの意思表示をしたことで、対立することなく太守の交代がなされます。もし孫策が戦バカ(←こだわっているw)で、「うりゃー華歆殺っちまうぞぉ!!」という人間だったら、こうはいきません。戦うわけにはいかないが、太守の座からは降ろしたい。そのための強制外交を行ったという状態です。
  • 当時,豫章南部の盧陵には僮芝(とうし)が自称盧陵太守を名乗っていた。まず孫策は豫章を二つに分割。豫章太守に孫賁,盧陵太守に孫輔を据える。それに周瑜を援護につけ,僮芝討伐の機会を伺わせる。孫賁と孫輔は僮芝が病にかかったとの情報を得て,一気に周瑜と共に僮芝を討ってこれを壊滅させた。さらに豫章に存在する宗教勢力や山越賊を抑えるために,韓当・蒋欽・周泰らを情勢不安定な県の県令に任命して反乱鎮圧に回らせると共に,呂範を鄱陽・周瑜を巴丘にやって反乱勢力を叩かせた。
  • また,劉表の抑えとして,太史慈を豫章郡西部の都尉につけた。劉表軍の劉盤(りゅうはん。劉表の甥。)はたびたび豫章に攻めこんで来ていたのだが,太史慈が都尉になると守りが磐石となり,劉盤も侵攻できなくなったのである。会稽郡では反乱鎮圧のエキスパート賀斉が会稽の反乱を抑えこんでいたし,丹陽・呉郡でも黄蓋・程普・朱治らの統治がうまく行っていた。ここに孫策の江東・江南の制圧は完了する。
  • その頃,中原でも大きな動きがある。幽州・冀州・青州・并州の四州を支配する大勢力,袁紹が大軍でもってついに南下を始めたのである。それに対して,曹操は官渡でもって必死の防衛線を敷く。袁紹と曹操の戦いは長期戦となっていた。孫策はすでに江東・江南の支配を固めており,しかも曹操との間に介在していた袁術はすでにいない。孫策は江東から天下に飛翔すべく,曹操の本拠,許都襲撃の計画を練っていた。