【 快進撃 】
  • 孫策死す??牛渚に退却した孫策軍の逃亡者からの情報である。孫策は父孫堅と同じく陣頭の猛将という側面を持ち合わせていた。だからこういった不慮の事故は十分にありうる話だった。しかも父と同じく流れ矢に当たって死んだと言う。
  • 喜んだのは笮融である。守りを固めて援軍を待つつもりだったのが,薛礼軍も樊能・于糜軍もあれよあれよと言う間に孫策軍に撃破されてしまった。しかし敵将孫策は死んだ。笮融は勇んで部下の于茲(うじ)を派遣して孫策軍に追い討ちをかける。主を失った孫策軍はもはや戦う気力はなく,于茲軍の攻撃に対して反撃もしようとせず敗走する。もはや勝ったも同然。そう于茲は思っただろう。しかし戦局は突然一変する。背後から孫策軍の伏兵が襲ってきたのである。思いもよらぬ孫策軍の攻撃に于茲軍は総崩れとなり,孫策軍は徹底的に追撃部隊を叩く。孫策の死は偽の情報だったのである。おそらく孫策が負傷したというのは本当だろう。しかしそんな大怪我ではなかった。孫策はそれを瞬時に笮融軍を陣営から誘い出す作戦に利用したのである。
  • 孫策は于茲軍を散々に叩ききった後,笮融の陣営まで軍を進め,そこで『孫策のやり方を見たか!!』と口々に叫ばせたのである。自分の死すら戦術に利用するような奴と戦えるか。命あっての物種である。笮融軍の兵士は恐れおののいて,夜のうちに軍営を逃亡する者が続出する。笮融はもはや生きた心地がしなかっただろう。笮融は堅固な軍営の堀をさらに深くし,塁を高くして防御を固め,一層なにがあっても出撃しなくなる。
  • 笮融はよほど堅固な地形に陣を敷いたらしく,孫策は笮融はそのままにして劉繇の本拠に迫ろうとする。さらに孫策は海陵(かいりょう)で劉繇軍の別働隊を破る。海陵は長江下流の北側であり,これはおそらく孫策軍と正面から戦わず,背後に回り叩く計画だったと思われる。しかしこの動きも孫策はきっちりと把握していたのである。別働隊を叩いた後,孫策軍は進路を転じて湖孰(こじゅく)・江乗(こうじょう)を占領する。事ここに至って,孫策軍と劉繇軍の戦いは完全に孫策軍の優勢となった。残るは劉繇の本拠地,曲阿である。 
    • (注)江東攻略戦再考。この時点での謎は二つ。一つは海陵の戦い。明らかにこの戦いだけが異質である。曲阿から見て海陵は東であり、孫策軍の進軍方向と逆。そこに軍を動かす必要がどこにあるのか?また西方向に動いた軍を曲阿を素通りして孫策が叩く必要がどこにあるのか?可能性としてこの戦いは別働隊同士のただの部隊衝突である可能性がある。あるいは劉繇の目的は徐州の陳登あたりと接触を持つ事にあり、それを察知した孫策が事前にその接触を妨害した・・のかも知れない。とにかくこの戦いだけは意味がわからん。もう一つは、秣陵の南に陣を敷いて、唯一孫策の攻撃を受けきった笮融。この後、湖熟・江乗・曲阿と戦線は続くが、笮融は一切動きが見られない。しかし、笮融がその気になれば牛渚なり秣陵なりを取り返すことも可能だったのではないか?
      こう考えると、秣陵南で孫策と対峙する中で笮融はすでに次を見ていた可能性がある。つまり、孫策と戦うのではなく今の主君を見限る道をすでに考えていたのではあるまいか?
    • (注の注^^ゞ)海陵は遠すぎる・・と思っていたら追加情報(^^ゞ。集解によると、海陵ではなく梅陵の間違えらしい。梅陵がどこにあるかは現在捜索中です(笑)。
    • (さらに注)今になって集解を読み返すと、唐書地理志に梅陵についての記述があるらしい。
      「宣州南陵県有梅根鎮,今有梅根港」
      文盲なので、はっきりとは分からないのだが、どうやら秣陵より南のようだ。孫策の進行方向は東なので、おそらく牛渚か歴陽を落とす予定の別働隊を叩いたということかもしれない。背後を取ろうというのは同じだが、これなら納得がいく。