【 西塞山の戦い 】
- 自称皇帝袁術は,坂道を転がるように衰退して,ついに袁術は死去する。問題はここからである。誰が袁術の残存勢力を引き継ぐのか。もちろん孫策も,袁術を倒してその勢力を手中に収めようと攻撃態勢を整えていたが,袁術軍は呂布・曹操の攻撃を受けて壊滅する。その後に袁術が憤死してしまったので,袁術の残存勢力とその妻子らは,廬江太守・劉勲(りゅうくん)の元に身を寄せてしまった。劉勲は元々は袁術の配下だったらしい。つまりこの段階で誰が劉勲の兵を手に入れるかがポイントだったのである。劉勲にはすでに曹操が触手を動かしていたようである。曹操旗下の劉曄は自分の兵を劉勲に託している。記述には,劉曄は兵を自分で持つのを好まなかったとあるが,劉勲に兵を託して恩を売り,劉勲を曹操に帰属させようとしたと考える事もできるのである。(実際,その後劉勲は曹操の元に逃げる。)
- (注)このあたり、後で書いた孫賁伝のテキストの方がよくできているのでそちらを参照してほしい。劉勲討伐の理由の一つとして、劉勲の兵力を手に入れるというのはあるだろうが、それは主なる目的ではない。この頃、孫策は、袁紹と曹操が争っているこの機を生かすため「荊州制圧」という大目標を立てている。もし孫策が「北方制圧」「献帝救出」という意思があるなら、曹操を叩くだろう。南北から挟撃され曹操は危機に陥るはずだ。しかし、それをせず荊州に向かったということは、孫策に「北方制圧」という意思はなかったという一つの証明になる。孫策が戦バカじゃない(←こだわっているw)という証拠でもある。戦に勝てても統治できないのなら出兵の意味はないのである。
で、劉勲討伐の主目的とは何かというと、それは「荊州制圧の邪魔」だからだ。荊州制圧の間に本拠を劉勲に襲撃されたら困るので、先に劉勲を討伐したのだ。孫策がスケールがでかいのは、劉勲討伐から荊州制圧までの流れを一気に描いたことだ。全て一連の流れとなっているのである。
- (注)このあたり、後で書いた孫賁伝のテキストの方がよくできているのでそちらを参照してほしい。劉勲討伐の理由の一つとして、劉勲の兵力を手に入れるというのはあるだろうが、それは主なる目的ではない。この頃、孫策は、袁紹と曹操が争っているこの機を生かすため「荊州制圧」という大目標を立てている。もし孫策が「北方制圧」「献帝救出」という意思があるなら、曹操を叩くだろう。南北から挟撃され曹操は危機に陥るはずだ。しかし、それをせず荊州に向かったということは、孫策に「北方制圧」という意思はなかったという一つの証明になる。孫策が戦バカじゃない(←こだわっているw)という証拠でもある。戦に勝てても統治できないのなら出兵の意味はないのである。
- 痩せても枯れても袁術の軍は大変多く,袁術の残存兵力を手に入れた劉勲の軍は大軍になった。このまま放っておくと,劉勲は曹操に帰属してしまうだろう。しかし,おめおめと曹操に袁術の残存兵力をくれてやるつもりは孫策にはなかった。孫策の劉勲打倒計画がスタートする。
- 孫策は使者に贈り物を持たせ,へりくだった態度でよしみを結びたい旨を伝えさせる。さらに『豫章軍の上繚(じょうりょう)には宗教勢力が闊歩しており,それらへの対応に困っています。協力して討ち取りませんか?もし討ち取る事ができれば,宗教勢力の兵力も手にする事ができますよ。』と持ちかけるのである。所謂『二匹目のどじょう』ってやつである。袁術の兵を手に入れることができた劉勲にとって,これはおいしい話に見えたのであろう。しかしこれはそんなおいしい話ではなかった。危惧した劉曄が言った言葉に全てが表れている。『上繚は小さいとはいえ,天然の要害であり,そうそう簡単に落ちるとは思えない。(下手すれば返り討ちだぞ。あの華歆殿だって討伐できないままだったんだから。)さらに,留守を孫策に襲われたら,進んでは敵に挫かれて,戻るにも帰る場所もないなんてこともありうるぞ。』さすがに劉曄は情勢を冷静に把握できていた。が劉勲は,喜び勇んで上繚討伐に出立する。
- 孫策の強さというのは,正面からぶつかった強さだけでなく,こういった計略・戦術のうまさもある。父孫堅の強さはどちらかというと,よく訓練された兵質による正面衝突の強さであったのに比べ,孫策の強さというのは少し質が異なるように思う。孫策の兵はほとんどが江東で新たに得た兵であり,訓練して精強な兵にする余裕はなかった。しかしそれを感じさせない統率力と計略・戦術で孫策軍は戦っても負けることがなかったのである。もちろんこれには,張昭・張紘・周瑜ら裏で孫策を支えた人物たちの能力も評価しなければならない。
- さて,劉勲が上綜に向かったという報が入ると,孫策は急行して,劉勲の居城である皖城(かんじょう)に攻め入る。主力のいない皖城は簡単に落ち,そこで孫策は,元袁術配下の兵士に工芸者や楽隊などを大量に手中に収める。さらに袁術の妻子を保護してそれらを呉郡に引き取ったのである。これらの遺産は後の孫権の代になって大いに役に立つことになる。それと孫権と言えば,この劉勲攻撃が初陣である。孫権は17歳。この時孫権は後の袁夫人(袁術の娘)を見初めたのかもしれない。見初めたと言えば孫権だけではない。皖城で孫策・周瑜は絶世の美女と言われた喬公の娘二人を見初める。(喬公って誰でしょう?もしかしたら袁術旗下に喬蕤という武将がいるので彼の事かもしれません。)そこで孫策は姉の大喬を妻として,周瑜は妹の小喬を妻としたのである^^;。まあ・・・うらやましいというか,仲がいいというか^^;。一体どういう経過で孫策が大喬・周瑜が小喬を娶る事にしたのか,想像すると笑える^^;。
- 孫策は李術(徐南の人物とあり,おそらく孫策軍の武将ではありません。徐南の士人,もしくは劉勲旗下で孫策に投降したのかもしれませんが,なぜ孫策が呂範・周瑜・黄蓋と言った自軍の中で任命にふさわしい人物を指名せず,李術を任命したのかは不思議です。その辺曹操との微妙な関係上,明らかな孫策旗下の将を任命できなかったのかもしれません。その後,李術は曹操から送られて来た揚州刺史の厳象(げんしょう)を殺害します。まさかと思いますが厳象殺害のための要員だったのでしょうか?)を廬江太守に任命して,皖城を守らせると,軍を返して劉勲追撃に取りかかる。すでに孫策は,孫賁・孫輔兄弟に命じて,皖城が落ちた事を聞いて慌てて戻ってくるであろう劉勲を,彭沢(ほうたく)で待ち伏せさていた。はたして孫賁・孫輔は戻ってきた劉勲軍を叩きのめす。進退極まった劉勲は西塞山に陣を敷き,黄祖に助けを求める。黄祖は息子の黄射(こうしゃ)を援軍に立てて西塞山に向かわせる。がすでに時は遅く,孫策は西塞山にて劉勲を叩きのめしていた。劉勲は散々に打ち負かされて,数百騎で曹操の元に逃げ落ちるのである。
- (注)李術について。孫賁伝で書いたように、この戦いは荊州制圧のための序章に過ぎないので、孫策はここを統治する気はあまりない。ということで、部下を配置しなかった。おそらく李術は皖城の守将(あるいは寝返った部将)であり、降伏した李術をそのまま太守として皖城に置いた。厳象殺害のための要員というのは面白い仮説だが、むしろ、劉勲が曹操の元に降っていることの方が、李術の厳象殺害と絡んでいる可能性の方が考えられる。
- 劉勲を倒し,長江北岸の廬江も手に入れた孫策。しかし劉勲を追ってやってきた豫章郡でやっておくことがあった。豫章の反乱勢力の鎮圧と,父の仇・黄祖の討伐である。▲▼
- (注)前述の通り。この時点で孫策の頭に豫章はない。豫章の華歆は、そもそも曹操側(漢王朝)の人間であり、曹操に組している孫策とこの時点で対立する要素がない。孫策から攻めていかなければ華歆側から攻撃を受ける心配はほぼない。廬江を攻め、そのまま江夏に攻め入り、一気に南荊州を制圧する電撃作戦である。この戦のスケールのでかさこそが孫策の魅力だ。