【 孫策伝年表 】
  • 今までは以前に作ったテキストは修正せず、注という形で補足する形式を取っていましたが、色々と手直ししなくてはならない所が多いもので、このテキストだけは全面的に書き換えます。
  • 194年(孫策20歳)
    • 孫策,袁術に身を寄せる。
    • 孫策,袁術の命により,廬江太守・陸康を討伐する。
    • 孫策,孫賁・呉景らを援護して,劉繇討伐に出向く。
    • 孫策,横江津・当利江の戦いで,急造の葦と蒲の船を作り,張英・于糜・樊能軍を敗走させる。
    孫策は成人したので、袁術に目通りしたことが分かります。で、問題は孫策の丹陽攻略開始時期です。曹操伝本文には193年に孫策が江東に渡ったとありますが、これはあり得ません。一年ずれていると思われます。呉景・孫賁らは193年後半に丹楊太守・周昕の追い出しに成功しています。その後、劉繇が呉景・孫賁を丹陽から追い出します。丁度、廬江太守・陸康討伐をやっている頃です。それから袁術は呉景・孫賁により丹陽奪回を試みますが、うまく行かず孫策の出番となります。これらを考えると孫策が丹陽攻略を開始したのは194年です。しかし、孫策伝中江表伝に孫策が牛渚砦を攻略したのは195年とあるので、どうやら孫策の丹陽攻略開始時期は194年末の事です。
  • 195年(孫策21歳)
    • 孫策,劉繇の牛渚砦を占拠する。
    • 孫策,秣陵南の戦いで笮融軍の先鋒を撃破する。笮融,守りを固め防衛線を張る。
    • 孫策,秣陵城を急襲・占拠,薛礼は逃亡する。
    • 于糜・樊能軍,牛渚の砦を奪い返すが,直後に孫策軍の急襲を食らい,大敗を喫す。
    • 孫策,梅陵にて迂回する劉繇軍別働隊を叩く。
    • 孫策,湖孰・江乗を占拠し,曲阿に迫る。
    • 太史慈,偵察中に孫策と遭遇し,一騎討ちを行う。
    • 劉繇,豫章に逃亡し,孫策は曲阿を占領する。
    • 孫策,孫賁・呉景を戦況報告に寿春に戻らせる。周瑜,丹陽太守・周尚の元に戻る。
    ほぼこの年は丹陽攻略の一年です。時系列がはっきりしているのは、孫策が曹操にあてた手紙の中に195年12月に曲阿にて袁術から殄冦将軍に任命された、という部分です。曲阿で行われたということは、この時点で劉繇は逃亡しています。おそらく前後して呉景・孫賁・周瑜がそれぞれ帰還しています。
  • 196年(孫策22歳)
    • 朱治,由拳にて呉郡太守・許貢を撃破,さらに軍を進め呉郡を占領する。許貢は会稽の賊,厳白虎に身を寄せる。
    • 孫策,会稽郡討伐に向かうが,浙江を挟んで膠着する。
    • 袁術,丹陽太守・周尚を交代させ,太守に袁胤を指名する。
    • 太史慈,丹陽の反乱分子を糾合して,丹陽太守を自称する。
    • 孫策,固陵にて孫静の献策を得て王朗軍を破る。王朗,会稽郡の郡都を捨て,船で東治に逃れる。
    • 孫策,王朗を追撃し,東治まで押し寄せ,王朗は孫策の元に出頭する。
    この辺りから時系列が複雑になってきます。まず呉郡についてですが、朱治はもしかしたら孫策の丹陽攻略が終わってから呉郡を攻略したのではなく、同時並行かもしれません。朱治は194年の段階で、馬日磾から正式に呉郡都尉に任命されています。そして朱治伝には「呉郡太守の座を31年務めて224年に死去」とあります。ということは194年の呉郡都尉の段階からずっと呉郡にいた・・と解釈することができ、そうなると朱治と孫策はこの時期、全くの別の軍と見た方が自然です。194年の呉郡都尉就任は遥任(実際の任地には赴かない)なのか実任なのか?で解釈が全く違ってきます。この辺り、少し整理して後述します。
    この年、孫策は会稽攻略に出立します。戦線が膠着したとある上、南の果ての東治まで追撃するのに一年近くを要しています。おそらくその時期に、袁術は丹陽太守を袁胤に交代させます。で、太守が交代した時期に、太史慈も丹陽で太守を自称します。もし自称するなら、太守が代わった時が混乱に乗じやすいはずです。
  • 197年(孫策23歳)
    • 袁術、皇帝を僭称する。
    • 曹操、袁術包囲網を画策し、王甫を孫策の元に遣り、孫策を騎都尉・鳥程侯(後に借りの明漢将軍)・会稽太守とする。
    • 孫策、丹陽太守・袁胤を追放する。徐琨、丹陽太守となる。朱治、呉郡太守の任に当たる。
    • 孫策、丹陽の独立勢力である祖郎・太史慈を討伐する。
    重要なのは、袁術の皇帝僭称と、曹操による袁術包囲網の形成です。この段階で孫策は袁術を見限ります。孫策が自称で会稽太守を名乗ったのではなく、曹操という後ろ盾を得て、正式に任命されているのがポイントです。自称なんとやらをやってしまうと名士層がそっぽを向きます。やっちゃならんのです。そして、丹陽を得たので、丹陽の独立勢力の祖郎・太史慈の排除に乗り出します。
    197年時点で孫策一派の勢力範囲は丹陽・呉・会稽の三郡です。会稽太守は孫策、丹陽太守は徐琨、呉郡太守は朱治です。徐琨と朱治に関しては、正式に王甫から任じられた風ではないので、この辺りから孫策の独自性が出てきます。まさしくこの年が孫呉勢力が江東に割拠した時と言ってよいでしょう。
  • 198年(孫策24歳)
    • 周瑜・呉景・孫賁、袁術の元を脱出し、孫策の元に戻る。
    • 孫策,呉景を丹陽太守に戻す。
    • 孫策,会稽に進み,反乱の賊・厳白虎を敗走させる。
    • 孫策,鳥程の銭銅・鄒他,嘉興の王晟,元呉郡太守・許貢など不穏分子の抹殺を行う。
    • 孫策,呂範・徐逸に命じて,下邳の陳瑀を海西にて撃破する。
    • 曹操、孫策を討逆将軍・呉侯に任ずる。
    • 曹操・孫策,孫賁の娘と曹章,曹操の弟の娘と孫匡を娶らせる。
    この年は、主に反乱勢力討伐の年です。袁術と手を切って曹操(漢王朝)側に組したため、曹家と孫家の婚姻関係の構築、孫策に爵位・将軍職が授けられるなど、表面上は、蜜月関係にあるように見えます。しかし、一方で陳禹(裏に陳登)による江東の反乱勢力の活発化の謀略も成されています。それを押さえるため、孫策は陳禹を討伐すると共に、江東の反乱勢力の一掃を図ります。で、よく引き合いに出される「孫策が陳登に負けた」という記述(陳登伝に出てくる)ですが、おそらくこの時のことと思われます。海西にて陳禹を討伐した時に、匡琦城にも攻め込んだのでしょう。しかし、曹操から任命された広陵太守である陳登を本気で倒すというのはこの時点では、あり得ないことです。(そんなことをしたら反乱勢力に認定されます。)よって、実際の所は、城まで包囲したが落とす気もなく、にらみを利かせて退散したという辺りが妥当な線かと思われます。孫策が「負けた」という意味では、後に江夏城に立て籠もる黄祖を落とすこと叶わず、荊州制圧を諦めたことの方が「戦略面での敗戦」という意味で大きいです。
  • 199年(孫策25歳)
    • 孫策,張紘を曹操への使者として許都に送る。
    • 孫策,討逆将軍・呉侯の位を賜る。
    • 孫策,劉勲を計略に乗せ彭沢で劉勲を敗走させる。廬江を占領する。西塞山で劉勲軍を撃破する。
    • 孫策、そのまま江夏に侵入。沙羨にて劉表の援軍を敗退させるが、江夏城は落とせず。(12月)
    孫策は、さらなる官位を得るため、重臣の張紘を曹操の元に遣り、討逆将軍・呉侯の位を得ます。孫権も後に似たようなこともします。例え、孫策が長生きしたとしても、やることは同じでしょう。魏(正当王朝)に臣従し、官位を得ることは孫家にとっては必要な措置です。家柄の関係で、どうしても臣従したり敵対したりを繰り返す羽目になります。
    この年は、劉表討伐(南荊州制圧)を目論んだ年です。劉勲は見事な手際で落としましたが、必死の防戦を行う黄祖を落とすこと叶わず、南荊州制圧の目論みは潰えます。孫策痛恨の失点です。
  • 200年(孫策26歳)
    • 孫策、豫章に入り、華歆を隠居させる。孫賁を豫章太守,孫輔を盧陵太守に任命する。
    • 孫賁・孫輔・周瑜,盧陵の僮芝を討つ。
    • 廬江太守・李術,揚州刺史厳象を殺害する。
    • 孫策,許貢の息子の刺客に刺され、その後、病死する。
    荊州制圧を諦めた孫策は豫章に入り、華歆と会談し、隠居させます。そして孫賁・孫輔を太守に任命し、丹陽・呉・会稽に加え、豫章も勢力範囲に広げます。この辺りの手際も見事です。あくまで漢王朝側の人間に対しては、戦いにならないようにしています。
    もし、この年、問題が発生したとしたら、それは廬江太守・李術による揚州刺史厳象を殺害かもしれません。これは「孫策の配下が漢王朝から正式に任命された人物を害した」ということになります。それ以前から、陳登のいる匡琦城を包囲したり、豫章の華歆を強引に隠居させたりと、ギリギリの線のことをやっていますが、殺害・占領には至っていません。この辺りから曹操との関係が微妙になり、陳登あたりが、江東の反乱勢力の活発化を画策していた可能性はあります。
  • 改めて孫策の年表を作成すると、戦をしてない年がありませんw。戦バカ(←こだわっているw)と呼ばれる所以です。しかし、戦術面の巧さもさることながら、独立・版図拡大における手際の良さの方が光ります。袁術と曹操の力関係をよく観察し、ほぼベストのタイミングで江東に割拠できています。これより早ければ、袁術の影響力を排しきれず独立が難しくなるうえにただの反乱勢力になります。遅ければ機を逸します。さらに、曹操が袁紹との対決を控えている状況を利用し、多少強引な版図拡大もやりますが、決定的な対立に至るようなことはしていません。また、城に閉じこもり徹底防御をする相手には、強引な力攻めはしないなど、大局を見誤り大損害を出すような事は一切していないことも分かります。間違えなく、戦術だけでなく戦略面でしっかりとした方針を持っていると言えるでしょう。懐刀に周瑜がいたというのも大きいと思われます。