【 孫策伝年表 】
- 今までは以前に作ったテキストは修正せず、注という形で補足する形式を取っていましたが、色々と手直ししなくてはならない所が多いもので、このテキストだけは全面的に書き換えます。
- 194年(孫策20歳)
- 孫策,袁術に身を寄せる。
- 孫策,袁術の命により,廬江太守・陸康を討伐する。
- 孫策,孫賁・呉景らを援護して,劉繇討伐に出向く。
- 孫策,横江津・当利江の戦いで,急造の葦と蒲の船を作り,張英・于糜・樊能軍を敗走させる。
- 195年(孫策21歳)
- 孫策,劉繇の牛渚砦を占拠する。
- 孫策,秣陵南の戦いで笮融軍の先鋒を撃破する。笮融,守りを固め防衛線を張る。
- 孫策,秣陵城を急襲・占拠,薛礼は逃亡する。
- 于糜・樊能軍,牛渚の砦を奪い返すが,直後に孫策軍の急襲を食らい,大敗を喫す。
- 孫策,梅陵にて迂回する劉繇軍別働隊を叩く。
- 孫策,湖孰・江乗を占拠し,曲阿に迫る。
- 太史慈,偵察中に孫策と遭遇し,一騎討ちを行う。
- 劉繇,豫章に逃亡し,孫策は曲阿を占領する。
- 孫策,孫賁・呉景を戦況報告に寿春に戻らせる。周瑜,丹陽太守・周尚の元に戻る。
- 196年(孫策22歳)
- 朱治,由拳にて呉郡太守・許貢を撃破,さらに軍を進め呉郡を占領する。許貢は会稽の賊,厳白虎に身を寄せる。
- 孫策,会稽郡討伐に向かうが,浙江を挟んで膠着する。
- 袁術,丹陽太守・周尚を交代させ,太守に袁胤を指名する。
- 太史慈,丹陽の反乱分子を糾合して,丹陽太守を自称する。
- 孫策,固陵にて孫静の献策を得て王朗軍を破る。王朗,会稽郡の郡都を捨て,船で東治に逃れる。
- 孫策,王朗を追撃し,東治まで押し寄せ,王朗は孫策の元に出頭する。
この年、孫策は会稽攻略に出立します。戦線が膠着したとある上、南の果ての東治まで追撃するのに一年近くを要しています。おそらくその時期に、袁術は丹陽太守を袁胤に交代させます。で、太守が交代した時期に、太史慈も丹陽で太守を自称します。もし自称するなら、太守が代わった時が混乱に乗じやすいはずです。 - 197年(孫策23歳)
- 袁術、皇帝を僭称する。
- 曹操、袁術包囲網を画策し、王甫を孫策の元に遣り、孫策を騎都尉・鳥程侯(後に借りの明漢将軍)・会稽太守とする。
- 孫策、丹陽太守・袁胤を追放する。徐琨、丹陽太守となる。朱治、呉郡太守の任に当たる。
- 孫策、丹陽の独立勢力である祖郎・太史慈を討伐する。
197年時点で孫策一派の勢力範囲は丹陽・呉・会稽の三郡です。会稽太守は孫策、丹陽太守は徐琨、呉郡太守は朱治です。徐琨と朱治に関しては、正式に王甫から任じられた風ではないので、この辺りから孫策の独自性が出てきます。まさしくこの年が孫呉勢力が江東に割拠した時と言ってよいでしょう。 - 198年(孫策24歳)
- 周瑜・呉景・孫賁、袁術の元を脱出し、孫策の元に戻る。
- 孫策,呉景を丹陽太守に戻す。
- 孫策,会稽に進み,反乱の賊・厳白虎を敗走させる。
- 孫策,鳥程の銭銅・鄒他,嘉興の王晟,元呉郡太守・許貢など不穏分子の抹殺を行う。
- 孫策,呂範・徐逸に命じて,下邳の陳瑀を海西にて撃破する。
- 曹操、孫策を討逆将軍・呉侯に任ずる。
- 曹操・孫策,孫賁の娘と曹章,曹操の弟の娘と孫匡を娶らせる。
- 199年(孫策25歳)
- 孫策,張紘を曹操への使者として許都に送る。
- 孫策,討逆将軍・呉侯の位を賜る。
- 孫策,劉勲を計略に乗せ彭沢で劉勲を敗走させる。廬江を占領する。西塞山で劉勲軍を撃破する。
- 孫策、そのまま江夏に侵入。沙羨にて劉表の援軍を敗退させるが、江夏城は落とせず。(12月)
この年は、劉表討伐(南荊州制圧)を目論んだ年です。劉勲は見事な手際で落としましたが、必死の防戦を行う黄祖を落とすこと叶わず、南荊州制圧の目論みは潰えます。孫策痛恨の失点です。 - 200年(孫策26歳)
- 孫策、豫章に入り、華歆を隠居させる。孫賁を豫章太守,孫輔を盧陵太守に任命する。
- 孫賁・孫輔・周瑜,盧陵の僮芝を討つ。
- 廬江太守・李術,揚州刺史厳象を殺害する。
- 孫策,許貢の息子の刺客に刺され、その後、病死する。
もし、この年、問題が発生したとしたら、それは廬江太守・李術による揚州刺史厳象を殺害かもしれません。これは「孫策の配下が漢王朝から正式に任命された人物を害した」ということになります。それ以前から、陳登のいる匡琦城を包囲したり、豫章の華歆を強引に隠居させたりと、ギリギリの線のことをやっていますが、殺害・占領には至っていません。この辺りから曹操との関係が微妙になり、陳登あたりが、江東の反乱勢力の活発化を画策していた可能性はあります。 - 改めて孫策の年表を作成すると、戦をしてない年がありませんw。戦バカ(←こだわっているw)と呼ばれる所以です。しかし、戦術面の巧さもさることながら、独立・版図拡大における手際の良さの方が光ります。袁術と曹操の力関係をよく観察し、ほぼベストのタイミングで江東に割拠できています。これより早ければ、袁術の影響力を排しきれず独立が難しくなるうえにただの反乱勢力になります。遅ければ機を逸します。さらに、曹操が袁紹との対決を控えている状況を利用し、多少強引な版図拡大もやりますが、決定的な対立に至るようなことはしていません。また、城に閉じこもり徹底防御をする相手には、強引な力攻めはしないなど、大局を見誤り大損害を出すような事は一切していないことも分かります。間違えなく、戦術だけでなく戦略面でしっかりとした方針を持っていると言えるでしょう。懐刀に周瑜がいたというのも大きいと思われます。 ▲▼