【 独立への布石 】
  • 丹陽郡を完全に手中に収めた孫策は,ここに初めて自分自身の基盤を持ったことになる。が,孫策を巡る揚州の情勢はまだまだ不安定であった。まず丹陽郡の周りにある呉郡・会稽郡・豫章郡の動向である。これらの郡の太守は,全て正式な州刺史であった劉繇に近い立場にあった。(許貢を除く)つまり後漢によって指名された太守である。それに対して孫策軍は袁術軍として行動していたのであるから,基本的には対峙する運命にあった。呉郡太守の許貢と会稽郡太守の王朗は,漢の官史として孫策と対峙する姿勢を見せる。ただ豫章太守の華歆は中立の立場を取った。劉繇の残兵たちは,一番近い位置にいる華歆に従軍する姿勢を見せていたのだが,華歆はガンとして元劉繇軍の残兵を受け入れなかったのである。この辺,もし劉繇軍の残兵を受け入れてしまったら,真っ先に孫策の標的になることを考慮してだった。
  • さらに独立の目標を持つ孫策は,背後にも気を配る必要があった。袁術との関係である。孫策はいずれ独立する必要があった。が,完全な袁術との反目はなるべく先に延ばしておく必要があったのである。当時,袁術は徐州に介入する動きを見せてはいたものの,丹陽郡を占領した段階で勝手に丹陽太守を名乗るようなことをすれば,矛先を転じて孫策に向かってくるかもしれなかった。まだ丹陽の周りの郡の多くが,対峙の姿勢を見せている以上,まだ袁術との関係を切るわけには行かなかったのである。そこで孫策は戦況報告という形で,孫賁と呉景を,寿春に戻らせる。これはまずは袁術に対して恭順の意思を示す目的があっただろう。それにもう一つは孫策自身の兵と袁術の兵を切り離すという目的があったと思われる。孫策軍の構成を考えて見ると
    • 歴陽で始めからいた直属部隊千人強
    • 呉景・孫賁の兵約4~5千人周瑜が引き連れてきた兵
    • 戦闘中に捕虜にした元劉繇軍
    • 曲阿で新たに配置された新兵
    こんなものだろう。このうち2の孫賁と呉景の軍は袁術の兵であり,彼らの軍と行動を共にする限り,いくら孫策が勝ちつづけても,それは袁術の勝利として,成果を袁術に搾取されかねなかった。また今後の独立の事を考えれば,袁術の軍が孫策の元にいるのは内乱の可能性を含め,好ましくなかったのである。そういう意味で呉景と孫賁は,袁術派とも孫策派とも言えるきわどい立場にあった。また,彼らもまだ自分が孫策旗下の武将という意識は持っていなかった可能性もあるのである。
  • それともう一人,立場的には袁術軍に近い人物がいた。実は周瑜である。周瑜は孫策に合流する際に連れてきた兵を,丹陽太守だった叔父の周尚から借り受けていた。後の記述でなんとなくわかるのだが,周尚は袁術が独自に指名した太守らしいのである。でなければいくら叔父とは言え,孫策軍に参入する周瑜が,後漢から任命された刺史を倒すための兵を借り受けられるはずがなかった。おそらく周瑜は袁術旗下の叔父の周尚の代理という形で参加したのではないだろうか?という事は名目的には周瑜の軍は袁術の軍であった。また袁術も孫策の成功には,周瑜の活躍が大きいことを知り,周瑜をほしがっていたのである。こうした事情から,孫策は呉郡・会稽郡の攻略の前に,周瑜を手放さざるを得なくなっていた。もちろん呉景・孫賁らの率いる歴陽から戦ってきた熟練の兵を手放し,江東で新たに得た新兵がほとんどという編成で戦わなくてはいけない点も痛手である。
  • そう言った背景から,呉景・孫賁は孫策軍から離れ,袁術の元に出向く。また,周瑜は丹陽の叔父,周尚の元に戻る。周瑜が丹陽で果たす役割は大きかった。袁術に恭順しつつ,丹陽が袁術の影響下に入らないように叔父の周尚を孫策派に引きこみ,がっちりと丹陽を孫策の支配下として固める。さらに,いざという時は袁術に反旗を翻し,丹陽を守る役目もあったと考えられるのである。これは孫策が周瑜を送り出す際の『これだけ兵がいれば,呉郡と会稽郡は俺の兵でなんとかなる。お前は丹陽に戻って基盤を固めてくれ。』と言う言葉からも推測できるのである。しかし,考えれば考えるほど丹陽太守に周瑜の叔父が任命されたのは孫策にとってラッキーである。これが周尚でなく,周瑜とは縁もゆかりもない袁術の将が太守だったら,孫策は丹陽を手にするために,この時点で袁術と手を切らざるを得なくなったかもしれない。周瑜は叔父の周尚を太守にしてもらうように袁術に働きかけたのではないだろうか?その義理があったと考えると,一時的にしろ周瑜が孫策から離れ,袁術旗下として動かなくてはいけなかった理由もはっきりするんだが。
  • この選択は孫策が袁術の影響を排除しつつ,袁術への義理を果たすという微妙な選択だった。取り方によっては,袁術からの半独立である。孫策は独立への布石を着実に打っていった。