【 揚州の情勢 】
- 孫策の江東制圧について書く前に,その頃の揚州一帯の情勢について触れておきたいと思います。
- まず,一口に揚州と言ってもずいぶん広い。地図を見てもらったら分かりますが,日本全土を合わせても揚州一つより狭いと思われます。漢王朝の時代から一応揚州は中国圏でしたが,ひとたび長江を渡ると漢王朝の威厳は十分には伝わりませんでした。長江の南側は山越と呼ばれる不服従民族がいてたびたび反乱を起こしていたのです。この山越というのが単一民族だったのか,それとも漢王朝に従わない人たちを総称してそう呼んだのかは明らかではありません。魏書になると孫権軍すらただの賊扱いですから,よく分からない不服従民は全て山越と呼ばれたというのが実際かもしれません。いずれにしても山越は揚州や荊州南部の山岳地帯に住み,世の中が乱れるとたびたび反乱を起こしました。また鎮圧されてもまたいずこから沸いて出て^^;また反乱を起こします。つまり一口に揚州と言っても実際には長江北岸と南側では別々の支配圏域だったと言えます。漢王朝の権威下の長江北岸と蛮地の南側。ですから漢王朝時代の揚州の州都は長江北岸の寿春。孫策が袁術に従っていた頃は長江北岸は完全に袁術の支配圏で,孫策が割って入ることなど不可能でした。
- では長江の南側はどういう情勢だったのか?
まず揚州刺史として劉繇が赴任しています。しかし州都の寿春には袁術が居座っており,寿春に行くことはできず劉繇は長江南岸の曲阿から支配を画策します。劉繇という人物は演義では孫策のやられ役でさえない印象ですが,伝を読む限り無能な人物とは思えません。伝の中のエピソードにも19の時に賊に捕らえられた叔父の劉偉を救い出す活躍が見られますし,済南の行政官をやっていた時期にも賄賂をむさぼる上官を罷免に追いこんでいます。また劉繇の伯父の劉寵は揚州・会稽郡で太守となり潔白な人物として知られていたので劉繇は全く基盤のない土地に行ったわけでもありませんでした。劉繇は袁術の長江南岸攻略の前線として赴任していた丹陽太守・呉景とその都尉(防衛軍隊長)の孫賁と対峙。部下の張英(ちょうえい)と樊能(はんのう)を派遣して侵攻を食い止めさせます。袁術は劉を倒すことができず,そうこうしている間に劉繇は揚州牧・振武将軍の位を加えられ,その軍勢は万を軽く越えるほどになります。孫策が来るまでの劉繇の揚州支配の計画は順調だったのです。 - また先に書いたように長江の南側には漢王朝に服従しない反乱勢力が力をもっていました。孫策が江東に向かった頃には呉郡には厳白虎(げんぱくこ),丹陽付近には祖郎(そろう)という反乱勢力の名が見られます。彼らは小規模な反乱勢力ではなくかなりの勢力でした。実際に孫策は丹陽で集めた数百人の兵を祖郎の襲撃により失っており,数百人程度ではいかに孫策が率いようと対抗できる数ではなかったことが読めるのです。
- その他にも会稽には太守として王朗が,呉郡には許貢が赴任してましたし,さらに南では宗教カルト勢力と山越賊が闊歩する未統治地帯が広がっていたのです。 ▲▼