【 袁術の元で 】
- 袁術軍に身を投じた孫策は,そこで非凡さを発揮する。袁術軍の喬蕤や張勲らにも尊敬され,袁術自身にも『ワシにも孫策のような息子がいたらなぁ。』と言わせる。その頃のエピソードとして,孫策の兵士の中で罪を犯したものが袁術の軍営に逃げこんだことがあった事が書かれている。その時,孫策はすぐさまその者を処罰して,袁術に勝手に軍営に入ったことを謝罪した。軍規の厳しさを自ら実践してのけた訳だ。また,朝廷から袁術への使者としてきた馬日磾には,懐義校尉の位を授けられる。そうしたこともあり,袁術軍の中でも孫策は一際,異彩を放つ存在だったのである。
- そういう孫策に対して,『他人のふんどしで相撲を取る』という,袁術の得意技が炸裂する。袁術は孫策を九江太守に任命すると約束していたが,実際には陳紀を任命する。また廬江太守の陸康が袁術の命に従わなかったため,(陸康は孫一門と交友があった。が孫策には冷たい態度を取っていた事が書かれている。)袁術は孫策を差し向けたが,陸康を倒したら廬江太守にすると言っておきながら,孫策が陸康を倒したら,実際にはまたもや自分の部下である劉勲を廬江太守に任命したのである。
- (注)この辺は「マユツバ」。統治実績のない二十歳そこいらの孫策を太守に任命する馬鹿はいない。むしろ当然。孫策にしても後述のように、江東に割拠するという方針はかなり初期から持っていたわけで、九江や廬江の太守にされたのでは、計算が狂う。むしろありがた迷惑。
「孫策のような息子がいたら・・」というのも切実な袁術の課題の一つ。袁術にはびっくりするくらい親族の記述がない。息子やら娘婿くらいしかいない。これは袁術が本家本流ではない上に、袁家が二派に分かれたので、助力してくれる親族が皆無だったことが大きい。よって袁術は豪族の力に頼らざるをえなかった。孫策のような若くして軍才のある親族がいたら、なんと心強かっただろう。
- (注)この辺は「マユツバ」。統治実績のない二十歳そこいらの孫策を太守に任命する馬鹿はいない。むしろ当然。孫策にしても後述のように、江東に割拠するという方針はかなり初期から持っていたわけで、九江や廬江の太守にされたのでは、計算が狂う。むしろありがた迷惑。
- この辺,実に袁術はこすい^^;。孫策の能力を認め,こんな息子が居たら・・・と言いながら,実際に孫策が功績を立てると惜しくなって自分の配下を太守に任命する。孫堅の時もそうだが,袁術は人使いがうまいというか,セコイ。もう少し考察すれば,袁術は孫策は土地を持たせると自分の命令は聞かなくなるのでは?と危惧していたのかもしれない。しかし,孫策にとってはたまったものではない。いくら功績を挙げても,結局自分の基盤がないものは搾取されるだけである。この辺,孫堅が袁家の争いに巻き込まれた頃と同じ憂鬱を孫策は抱えていた。
- しかし孫策はいつまでも不遇を囲っている気はなかった。かなり早い時期から江東に基盤を持つべしと考えていたようなのである。長江を挟んだ江東は袁術の勢力圏外であり,そこを占領すれば十分独立可能だったのである。その考えは江都にいた頃から持っており,それを張紘に話している。また同じ頃,朱治も江東に勢力を持つべきだと進言している。孫策は江東に出兵するチャンスを虎視眈々と狙っていたのである。
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