【 他伝に見る孫策伝 】
  • さて,まずは『魏書,陳登伝』
    陳登が匡琦城にいたときの事,孫策軍が匡琦に攻めてきます。ほとんどの者は戦いを避けて逃げるべきだと主張しますが,陳登はガンとして交戦を主張。油断を誘って奇襲をかけ,孫策軍を敗退させます。さらに再度攻めてきた軍を奇策でもって撃退した,とありますが??そこまでの敗北を孫策が喫したとなると,これは大問題です。しかも呉書の中には陳登との戦いは誰の伝にも出てきません。わずかに孫策伝の注の中に,孫策は陳登を討伐する軍を起こした途中で殺された。とあるだけです。時期的には呂布を倒した後です。しかも二度の進軍です。これはどう解釈すればいいのでしょうか?孫策が徐州に大軍を動かした形跡はないのです。しかし陳矯伝には,匡琦城が孫権に囲まれた時・・とあります。どうやら孫策の行軍と孫権の行軍がいっしょに書かれているようです。少なくとも二度目の行軍は孫権でしょう。しかし一度目の行軍はなんでしょうか?考えられるのは,陳瑀討伐に向かった呂範と徐逸の軍です。彼らは海西まで進んで陳瑀を討っています。実は陳瑀は陳登とは一族であり,この時に呂範軍と陳登軍が衝突した可能性はありえます。そういえば呂範に同行した徐逸はこの後記述がありません。陳登に敗れて戦死したのかもしれませんね。
  • 『魏書 徐奕(じょえき)伝』
    徐奕は戦乱のため江東に避難しますが,孫策の推挙を断り中原に戻ります。
  • 『魏書 華歆伝』
    孫策の死後,曹操は華歆を上奏して都に来させようとします。孫権は行かせまいとしますが,華歆は『私が曹操の元で貴方(孫権)のためにしてあげられる事はたくさんあります。ここにいるより返って役に立つでしょう。』と言って,曹操の元に行きます。さらに降服を勧めに来た虞翻との会話,降服して孫策と会見した時の様子が書かれています。孫策,華歆共に立派な態度でした。
  • 『魏書 王朗伝』
    孫策に投降した時の様子が書かれています。王朗は偉そうな事を言うと殺されると思ったのか,ひたすら弁解をせず,『自分が無能であった,この上はどんな処罰でも受ける』。と言ってます。後に曹操旗下に加わり,曹操に孫策について聞かれます。王朗は『孫策は優れた武勇と野心を持っており,しかも孫策を支える張昭・周瑜は英傑である,孫策はただの反乱軍ではないですぞ。(後の憂いとなります。)』と答えます。
  • 『魏書 郭嘉伝』
    前記したように,郭嘉は,孫策の許都襲撃の噂を聞き恐れ慄く人々に対し,『孫策は江東を平定したばかりで情勢は安定しておらず,私の観察では必ず刺客の手に落ちる。』と予想します。はたして孫策はその後,刺客の手に落ちます。異才郭嘉の面目躍如ですね。
  • 『魏書 劉曄伝』
    これも前記しましたが,孫策の策に乗せられる劉勲を諌める劉曄の姿が書かれています。魏には陳登といい,劉曄といい,隠れた英才が沢山います。魏の底力を感じる所です。
  • 『魏書 劉馥(りゅうふく)伝』
    廬江太守李術は,曹操から送られて来た揚州太守厳象を殺害します。代わりに劉馥が揚州刺史に任命されます。彼は後の孫権伝とのつながりが大きいですので,後の事はそちらに書きますね^^;。
  • 『魏書 陳矯伝』
    陳矯も戦乱を逃れて江東に来ますが,袁術と孫策の推挙を断って徐州に戻ります。そこで陳登に取りたてられて,孫権が進入した際には,援軍要請の使者として許都に出向きます。
  • 『魏書 徐宣(じょせん)伝』
    彼も江東に避難しながらも,孫策の推挙を断った人物です。いわゆる清流派の人物たちにとって,孫策は反乱軍であり,孫策がこうした清流派の人物たちの登用に苦労したことがわかります。孫策が官位をほしがったのも,この辺が関係しているように思います。
  • 『蜀書 許靖(きょせい)伝』
    許靖は王朗や許貢と昔馴染みだったので,彼らに身を寄せますが,孫策が攻めてくると交州に逃れます。交州で劉璋の推挙を受けて蜀に入るのですが,裴松之は『孫策が来た事と,許靖の安全とに何の関係があるのか。交州にまで逃げて(疫病にかかり)大変な思いをするのと,張昭・張紘のように孫策旗下で一国の大黒柱として活躍するのと,どっちが優れているかは明白だ。』と許靖の行動を批判しています。孫ぽこ的には裴松之の指摘は的外れに思えます。許靖は反乱勢力である袁術旗下の孫策に同調する気はゼロで、その辺りは許劭と同じです。  -孫策伝 了-