【 潜在的脅威 】
  • 孫策が,江東を制圧した当時,反乱勢力というのは大別して二つあった。一つは会稽郡を中心とする。厳白虎の一派。もう一つは丹陽西部~豫章にかけて勢力を持つ,祖郎の一派である。その他に豫章郡には宗教勢力や民衆の独立勢力に加え,僮芝が盧陵で太守を名乗っていた。
  • 孫策が豫章郡を制圧するのは,実はもう少し後になるので,この時期,孫策に抵抗する反乱勢力は厳白虎と祖郎の二派だった。それらがバラバラに行動しているうちは大した脅威ではなかったかもしれないが,孫策が江東を制圧した頃から,不穏な動きが見られるようになる。孫策の勢力の拡大化を脅威に感じる北方の勢力と,厳白虎や祖郎ら反乱勢力が結託して動き出したのである。
  • まず,丹陽で孫策と軍事衝突した袁術である。この頃の袁術は徐州への介入も失敗に終わり,さらに皇帝を自称しようとしていた頃で,内情的にはかなり落ち目だったと思われる。孫策軍と正面衝突できる余裕はなかったと言ってよい。そこで,祖郎に官位を授け,山越賊を扇動して,内部からの反乱を画策したのである。
  • それに加え,どうやら反乱を画策したのは,袁術だけではなかったようなのである。陳瑀(陳登の従兄弟にあたる。元は揚州刺史だったが,袁術に追われ下邳に逃げていた。)が,呉郡太守を名乗り,厳白虎らと連絡を取り合い,揚州奪回を画策していたのである。これは陳瑀の独断なのだろうか?記述を見る限り,陳瑀は無能に近く,むしろバックに陳登,さらには曹操の影があるような気がする。
  • こうした反乱勢力の存在は,江東に基盤を置く限り,潜在的な脅威として存在していたのである。後の魏・蜀が呉に立ち向かう時も,攻め入ると共に,山越賊に官位を与え反乱を画策するというのは,常套手段になっている。しかも孫策は,出遅れた分を取り戻すべく一気に版図を広げたので,そういった反乱分子は各地に点在したままだったのである。この辺は,父孫堅から孫策への引継ぎがうまく行かなかったツケと言っていい。孫策は厳白虎・祖郎らの討伐,さらには潜在的反乱分子の一掃に乗り出す。
  • 祖郎には孫策がまだ無官だった頃に,丹陽で集まった数百名の兵を潰されたという遺恨があった。孫策は自ら祖郎の討伐を行う。途中で孫策が危機に陥り,危うい所を程普に助けられるという事はあったものの,(まー,この辺は孫堅パパとそっくりですな^^;。総大将が兵卒と斬りあってはいけません。張昭らの苦悩が伺えます^^;。)結局,祖郎は捕らえられる。そこでなんと孫策は祖郎を配下に加えてしまうのである。その時の孫策の言は,『かつて,お前は俺を襲撃して,斬り付けた刀が俺の馬の鞍に当たった事もあったが,俺は自分の大志のために,ただ能力があるか否かだけを見て人材を集めている。俺がかつて敵対したのに取り立てているのはお前だけじゃない。(おそらく太史慈の事を指している。)心配しないで俺の部下になれ。』てなものである。祖郎はその場で縄を外され,太史慈と共に軍の先頭に立って凱旋したというのだ。まあ,討伐した敵将が,その凱旋パレードの先頭に立つなんて,常識では考えられない。この後祖郎の活躍は聞かれないので,どこかで戦死したか,反逆の根が疼き反乱したかのいずれかであろう。しかし,これを見ても孫策の人材登用の凄さは曹操以上と感じるのである。
  • 厳白虎の討伐には,まず背後の画策者である陳瑀を叩くべく,呂範・徐逸(じょいつ。この時しか名前は見られない。)を送る。呂範は,海西(かいせい)にて陳瑀軍を撃退して,四千人を捕虜にしてしまう。さらに厳白虎討伐には孫策自らが出向いた。厳白虎(おそらく,これは本名じゃないでしょう。やくざが異名を名乗っているようなものですね。)は,弟の厳輿(げんよ)を使者に立てて,和平を結ぼうとする。しかしこういうのは,孫策が最も嫌う行為であり,厳白虎は墓穴を掘ってしまう。さて厳輿は孫策の軍営にやってくる。さて脚本つき孫策劇場の始まり始まり^^;。
    • 孫策 『お前さん,その巨体に似合わず,素早く動くことができるらしいな。』
    • 厳輿 『特に刀を見ると体は素早く動きます。(←お馬鹿)』
    • 孫策 『ほー。』 孫策,手戟(しゅげき。太史慈が持っていたのと同じですね。太史慈から使い方を教わったのでしょうか?)を厳輿に投げつける。厳輿の眉間に直撃。
    • 厳輿 『ぷしゅゅぅぅ!!!!』 厳輿,眉間に手戟が突き刺さったまま,死亡する。
    • 孫策 『なんだ。嘘か。(フッ)』
    • <次回予告>孫策に一撃で倒された厳輿!!恐怖に慄く厳白虎に孫策は言い放つ。
            -厳白虎よ。お前はすでに死んでいる。-
    はい。もう言葉もありません^^;。孫策は世紀末ヒーローなんでしょうか?凄すぎます^^;。結局,厳白虎は恐れをなして,江東の山中奥深くに逃げ込みます。
  • さらに,孫策は,潜在的な反乱分子の一掃に乗り出す。鳥程(うてい)の賊,鄒他(すうた)・銭銅(せんどう)や,嘉興(かこう)の賊,王晟(おうせい)など,地方の反乱分子を根絶やしにし,さらに孫策に従わない地方の有力者や,宗教勢力の根絶を目指していく。その中に元呉郡太守,許貢もいた。許貢は,漢の朝廷(曹操)に手紙を送り,『孫策は昔の項羽のようなもので,地方に置いておくと,後の災いの種となる。今のうちに中央の官職につけて,都に縛り付けてしまうのがベストです。』と献策した罪から孫策に殺害されるのである。本当に許貢がそんな献策をしたのかどうかは,微妙な線だろう。許貢のような反乱分子を抱えておくことは,孫策にとっても不利益だったはずだ。また孫策が弾圧した宗教勢力の中に干吉のような者もいたのだろう。
  • 孫策の反乱勢力つぶしはかなり強烈だったようで,王晟を倒した時には,王晟の一族を皆殺しにしてしまい,呉夫人(孫策の母)から,『そこまでやらなくても。』とたしなめられている。孫策が反乱分子に対して,強烈な仕打ちをしたのには理由があるだろう。江東は漢の権威がしっかりと届かない蛮地でもある。孫策が江東を支配したと言っても,ちょっと隙を見せれば,すぐ反乱がおきるだろう事は予想できる。おそらく孫策は『俺に逆らうと,とんでもない目に会うぜ。』という見せしめをやったのだろう。しかし,この事が,後に孫策に影を落としていくことになる。