【 蒲と葦の船 】
- 歴陽で周瑜と合流した孫策は『お前が来てくれて思いがかなったよ(江東制圧はできたも同然だ)。』と言って周瑜を出迎える。周瑜の合流は孫策にとって物心両面で心強いことだったろう。しかし戦局はいまだ予断を許す状況ではなかった。周瑜が物資を提供したとはいえ,まだまだ孫策軍は物資不足であり,十分な兵力を運ぶだけの船が不足していたのである。長江での戦いは船がなくては話にならない。かといって船の補充を待っていたら,曲阿から水軍が大挙増援に来てしまい,さらに不利になる。結局,呉景と孫賁が張英・于糜らを討つことができなかったのも,こうした水軍の不足が原因だったと思われるのである。
- そこで孫策は思い切った策に打って出る。部下の除琨(孫堅以来の古参の武将。後に娘が孫権の夫人となる。)の献策により,長江に生えている蒲(がま)や葦(あし)を使って急ごしらえの船を作り,全軍で張英の軍営に急襲をかけたのである。よもや敵も蒲や葦で作ったいかだで攻撃してくるとは思いもよらなかったはずである。この必死の攻撃の中,程普や呂範らの奮戦もあり張英軍・于糜・樊能軍を撃破する。緒戦は敵の意表をついた孫策軍が必死の奮戦により勝利したのであった。しかしこれは敵の先鋒を叩いただけであり,まだまだ劉繇軍の主力は温存されていた。張英らは曲阿に戻り,軍を再編成して再度攻撃をかける構えである。
- しかし孫策には次の先手が用意されていた。劉繇軍の軍糧と武器が牛渚(ぎゅうしょ)の軍営にあることを突き止めていたのである。孫策軍は一気に長江を渡ると牛渚の軍営を急襲。そこにある物資を全て奪い取ったのである。物資不足の孫策軍にとってこれは大きい。おそらく長江を渡ったら物資のある牛渚軍営を襲うことは計画済みだったと思われる。これは十分な下調べが出来ていないと不可能な話である。おそらく丹陽にいた周瑜がこの辺りの劉繇軍の動向を突き止めていたと思われる。この辺,孫策軍の諜報力は劉繇軍を上回っていた。
- 牛渚軍営を落とした孫策軍であるが,その北東には秣陵(ばつりょう)城があり,薛礼(せつれい)と笮融が待ちうけていた。いまだ劉繇との戦いは序盤戦であった。 ▲▼
- (注)地図を作り直した関係で、一度孫策の江東攻略戦を読み直して見る。こうして見ると、呉景・孫賁軍と張英軍が対峙していた頃から数千人ほど増員されたとは言え、やはり強い。なぜ孫策が指揮を執るようになったとたんに急に強くなったのか?才能と言ってしまうと終わりになってしまうので、別の要因を考えて見る。孫策の用兵の特徴は兵力集中・電撃移動にある。これに劉繇軍は振り回されたという感が強い。つまり葦の船の例で分かるように、前線に投入されていない余剰兵力を孫策は一切作らなかったのである。逆に言えば一戦して負けたら余剰兵力がない分、孫策軍にはもう後がなかった。そういう事もあって将・兵問わず必死で戦ったという面もあるかもしれない。