【 江東へ 】
- 揚州刺史に赴任した劉繇は袁術の抑えを見事にこなしていた。曲阿に拠点を定めると,袁術旗下として丹陽にいた呉景・孫賁を追い出す。さらに部下の樊能(はんのう)・于糜(うび)を横江津(おうこうつ。長江の北岸にあたる。)張英(ちょうえい)を当利口(とうりこう。おそらく歴陽のそば)に駐在させ,袁術に備えた。
- これに対して袁術は部下の恵衢(けいく)を独自に揚州刺史に任命。呉景と孫賁を歴陽(れきよう)に置き,張英に対峙させる。しかし何回攻撃をかけても張英を撃破できず,両軍は長江で対峙したまま膠着状態となる。また袁術自身は北の曹操・徐州の劉備・呂布に備えなくてはならず,全軍で長江を渡って劉繇に攻撃をかけることは戦略上無理だったと思える。孫策が江東に出兵するには絶好の口実ができていたのである。
- 孫策は叔父の呉景に加勢して劉繇を討ちたいと申し出る。北に備えなくてはならない袁術としては主力を江東に回せない以上,孫策が劉繇に対峙してくれるとなれば渡りに船だったろう。裴松之の注には袁術は江東に劉繇がいる以上,孫策が江東を制覇することはないだろうと考えて孫策の要求を認めた。とある。わずか千人強の軍隊が加わるだけである。呉景・孫賁へのちょっとした援軍程度のつもりだったのかもしれない。しかしわずか千人強,馬は数十頭にしかすぎない孫策軍はここから大飛躍を行うのである。
- 寿春を出発した孫策軍は歴陽で呉景・孫賁軍と合流する。合流した時点で兵数はおよそ5~6千人。伝には歴陽に到着する間に孫策軍に義勇軍が加わり5~6千人になったように記述がされているが,自分の独断の解釈で呉景・孫賁軍と合流して5~6千人になったと考えている。基盤のない孫策軍に義勇軍として参加するお人良しなどそんなにいるはずがないのである。義勇軍というのはそれなりに食って行ける算段があるか,よほど正義に訴えるものがないと出てきたりしない。どう考えても当時の孫策軍に参加して飯にありつける保証はないし,黄巾討伐などのような強い正義もない。常識で考えて,勝てる見込みすら低い。行く先々で兵を募集したとしてもそんなに劇的に増えたりしないはず。呉景・孫賁と合流して5~6千人と考えると合点がいくのである。つまり5~6千人と言っても孫策直属の軍は千人程度だったと考えられる。
- しかし孫策はここ歴陽で朋友にめぐり合う。周瑜はこれより前に,叔父の周尚(しゅうしょう)が丹陽太守になったお祝いと口実をつけて家を出立して丹陽郡に来ていた。そこで孫策軍が動くと,周瑜は孫策軍に合流して歴陽で孫策を迎えたのである。しかも周瑜は単独の参加ではなく,軍を引き連れての参加だった。周瑜はどこから軍を調達したのだろうか?おそらく丹陽太守となった叔父から兵を調達していたと思われる。この周瑜の参軍は孫策にとって精神的な支柱を得ただけでなく,物質的な支援の意味でも大きかったのである。まず周瑜は丹陽で軍だけでなく船と軍糧も集め,孫策軍に提供しているのである。基盤がなく物質面で不安要素の多い孫策軍にとってこれは大きい支援だった。しかもこの後の戦いで劉繇軍の重要な機密が漏洩していると思われる戦いがある。つまり周瑜は孫策軍に物資を提供しただけでなく丹陽で諜報活動を行い,劉繇軍の動向と弱点をつぶさに調べ上げていた可能性が高いのである。周瑜と孫策は前もって連絡を取り,周瑜が下調べと物資の調達を買って出たのではないだろうか?いずれにせよ,周瑜の叔父が丹陽太守に任命されたことは孫策・周瑜にとってラッキーだったと言える。しかし時期的にも人選的にもラッキーすぎないか?周瑜が手を回したと考えるのは考えすぎだろうか^^;?
- 戦いは対峙する前から始まっていたのである。孫策軍は兵力では劉繇軍に劣るものの,人材面と戦う前の準備段階での戦略面で勝っていた。この後の孫策軍の怒涛の進軍にはきちんとした裏付けがあったのである。
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