【 蜂起 】
- 江東の制圧に一応の決着をつけた孫策。だが孫策は完全に袁術から独立したわけではなかった。ここまでの孫策はいわば,半独立状態と言った所で,軍の進め方は独断で行っているものの,あくまでそれは袁術の方針に従って戦ったことになる。
- しかし,袁術と孫策の同盟(主従)関係は,一つの契機が訪れる。袁術は丹陽太守の周尚を交代させ,太守に自分の一族の袁胤(えんいん)を送りこんできたのである。江東の郡のうち,丹陽だけは孫策と袁術の双方の軍で攻め取った土地であり,そういう意味で丹陽がどちらの支配下になるかは微妙な問題だったのである。太守が袁術の部下でもあり,孫策の無二の親友の周瑜の叔父でもある周尚であったということは,実に丹陽の微妙な位置関係が表れていた。袁術にしてみれば,丹陽太守の交代は,『呉郡・会稽郡・豫章郡の采配は孫策の自由にしてよいが,丹陽はワシの物だ。』と言う,実力行使であった。それに対して孫策がどう出るかもまた,微妙な問題だったのである。丹陽はあきらめ,他の三郡の支配のみで満足するか,丹陽をめぐって袁術と争うか?
- (注)前述したように、これも少ーし違う。袁術は「孫策の切り取り自由」なんて思っていない。あくまで孫策は自勢力内の一員であり、数少ない親族を送り込んできたのは、孫軍閥への重石である。豪族のパワーバランスを制御し、孫軍閥をコントロールする気だったのだ。
- 孫策が丹陽太守の交代に対して,どう出るかが微妙だったことは,周瑜の行動にも表れている。もし孫策が確実に丹陽太守交代に対して,反撃の態勢を取ると分かっていたなら,周瑜もまた袁胤を受け入れず,袁術に対して,反旗をひるがえしたはずである。しかし周瑜は孫策の結論を待つことにしたのか,袁胤をそのまま受け入れ,父周尚と共に寿春の袁術の元に出向くのである。この辺,周瑜の去就もまだ微妙だったとも言える。まあ,孫策の結論がないと,勝手に周瑜が袁術と孫策の関係をぶち壊すことはできなかったのも,確かではある。全ては孫策の結論待ちであった。
- さて,孫策の方だが,袁術の実力行使に対する,孫策の結論は『実力行使には実力行使じゃい!!』という,実に孫策らしい結論であった^^;。孫策は徐琨に命じて,太守の袁胤を武力で持って追い出したのである。さらに孫輔(そんほ。孫賁の弟。)を送り出して,歴陽に駐屯させ(劉繇も袁術に対してそこに軍を置いた。どうやら歴陽は長江を挟んで対峙する場合の拠点になるようだ。),丹陽の民衆に孫策側に付くように説得させると共に,袁術の侵攻に備えさせたのである。(実は正史の本文には,孫輔が歴陽に布陣したのは孫策が丹陽の六県を制圧した直後と書かれているのだが,そんな時期に歴陽に布陣したら,孫策と袁術の反目はもっと早かったはずで,それは時期的におかしいと思うので,独断で孫輔が歴陽に布陣したのはこの時期と解釈させてもらった。)この実力行使に対して,ニッチもサッチも行かなくなったのは実は袁術の側であった。袁術はこの頃,劉備と呂布の徐州での内乱を利用して,徐州に勢力を伸ばそうと画策していた頃で,しかも戦況は決して芳しくはなかったのである。そこにさらに孫策と戦うわけには行かなかったのである。しかしそれなら丹陽まで触手を広げようとせず,孫策にあげれば良かったのだ。この辺,袁家のおごりである。袁術は丹陽を失っただけでなく,同盟が維持できたはずの孫策とも反目するハメになった。孫策にしてみれば,してやったりだろう。これまで父の代から辛酸を舐めさせられた袁術に一矢報いたのである。
- (注)前述の通り。これも違う。丹陽を直接親族に支配させるのは、孫軍閥への重石であり、絶対に必要な措置だ。江東を孫軍閥、あるいはそれに近い豪族たちに支配させたら、いずれ制御が効かなくなる。ポッと出の「孫家」と名門「袁家」が同盟なんて、考えようもない。あくまで孫家は袁術の駒でなくてはならないのだ。しかも、袁胤の丹陽太守就任は、孫策の会稽攻略中に行われており、それに対して孫策がどうこうできる状況にもなかった。よって、主人の命令通り、周瑜は寿春に出向いた。袁術の思惑通りである。それが制御が効かなくなったのは、「皇帝僭称」という離反の大義名分を与えたことと、曹操が反・袁術包囲網を画策したことにより、「袁術の影響力が衰えた」からである。
で、後で孫賁伝で書いたように、孫輔が歴陽に布陣した時期は、陳寿の本文通りで合っている。うちの孫策伝では、太史慈討伐を先に書いてしまったのだが、時系列を整理すると、太史慈・祖郎らの討伐は、袁胤追放後だ。袁胤を追放したから、丹陽の支配を始めたのである。兎にも角にも、丹陽太守に袁胤が赴任したことは、孫策が江東での独立を画策する契機にはなっている。丹陽に楔を入れられたら、孫家による江東支配は不可能だからだ。だからこそ、孫策は曹操による袁術包囲網に賛同した。
袁術からすれば、丹陽に楔を打つのは当然で、理にかなっている。孫策を会稽太守に任命した様子もないから、例によって子飼いの武将を任命する気だったのかもしれない。だが、それを可能にするためには、袁術が中原で曹操を圧倒し、江東豪族に対し、強い影響力を保持する必要があった。要は袁術は曹操に負けたので、江東も失ったのである。だが、名士層に見放され、プライドの高さから「中原を諦め江東に割拠する」という考え方もできなかった袁術に、曹操に勝つ術があったか?というとほとんどない。袁術が生き残るためには、孫家を使い倒し、江東に拠点を置き、そこで「皇帝」を名乗れば良かったのだ。袁術は名門であるし、豪族のコントロールは長けているので、うまく支配できただろう。
- (注)前述の通り。これも違う。丹陽を直接親族に支配させるのは、孫軍閥への重石であり、絶対に必要な措置だ。江東を孫軍閥、あるいはそれに近い豪族たちに支配させたら、いずれ制御が効かなくなる。ポッと出の「孫家」と名門「袁家」が同盟なんて、考えようもない。あくまで孫家は袁術の駒でなくてはならないのだ。しかも、袁胤の丹陽太守就任は、孫策の会稽攻略中に行われており、それに対して孫策がどうこうできる状況にもなかった。よって、主人の命令通り、周瑜は寿春に出向いた。袁術の思惑通りである。それが制御が効かなくなったのは、「皇帝僭称」という離反の大義名分を与えたことと、曹操が反・袁術包囲網を画策したことにより、「袁術の影響力が衰えた」からである。
- 孫策の実力行使は,これだけではなかった。袁術の元にいる,孫家関係の人物たちの切り崩しにかかったのである。まず,当然の事ながら,孫策の実力行使が明らかになると,周瑜は袁術からの脱出を試みる。実は袁術は周瑜が気に入っていて,自軍の将軍にしようとするのだが,周瑜はなんやかやと理由をつけて,県令に収まり,そこから魯粛(ろしゅく)と共に孫策の元に脱出する。
- 残るは孫賁・呉景らである。彼らに対する孫策の対応は,結構辛辣である。歴陽に布陣している孫輔は孫賁の弟である。つまり『孫賁兄さん。もしこのまま,袁術に従うなら貴方は弟と戦うことになるんですよ?いいんですか?呉景のおじさんも一族と戦う気なんですね?』と言うことである。さらに孫策は孫賁と呉景に対して,『私は江東に居座る反乱勢力の一掃に乗り出したいと思うが,おじさんたちはどうしますか?(孫賁と呉景は劉繇を追い出した後,まず厳白虎らの反乱勢力の鎮圧をすべきだと言っていたのである。)』という手紙を送る。これは袁術から離れてこっちに来てくださいよという督促状である。これに対して素早く反応したのは呉景である。呉景は皇帝を名乗ろうとしていた袁術に見切りをつけていたらしく,袁術から任じられていた広陵太守の任を放棄して,江東に逃亡する。孫賁は九江太守という要職にあり,さらに袁術から孫賁は裏切って孫策の元に走るのではないかと危惧されていたらしく,なかなか抜け出せなかったのだが,結局妻子を捨てて江東に逃亡する。妻子はおそらく袁術の監視下にあったのだろう。この辺,孫賁は袁術と孫策の狭間に立っていて,かわいそうな立場である。孫策の袁術側の孫一門の切り崩しは大成功となった。(ただし全員が孫策についたわけではなく,始めから孫策の江東制圧に参加していなかった孫香(そんか)は,そのまま袁術の元に留まり,最後まで袁術の旗下として戦うことになる。)。
- これら一連の孫策の行動は,まさに袁術に対する完全独立宣言であり,袁術に対する孫一門の一斉蜂起であった。孫策はここに自らが会稽太守であると宣言する。 ▲▼
- (注)これもちょいと違うw。孫策は会稽太守を「自称」したのではなく、反・袁術包囲網に参加したことにより、会稽太守になることを曹操に認めさせたのだ。宣言したのではなく、任命されたのだ。でなきゃただの反乱勢力である。それが次の「新体制の構築」につながってくる。