【 太史慈と許子将 】
- なぜこうも簡単に我が軍は敗れるのだ?おそらく,劉繇は狐にばかされたような心地で孫策の進軍の報告を聞いていただろう。袁術には負けなかったのに,わずかな手勢しかいなかったはず孫策には常に先手先手を取られ,無残な敗北を繰り返している。今や孫策軍の数は膨れ上がり,劉繇軍を凌駕していた。
- 孫策が来るまでの劉繇の戦略は決して間違ってはいなかったと考えられる。天然の要害となる長江を挟んで水軍でもって袁術と対峙する。これはその後の孫権の対魏戦のやり方を見ても正攻法であり,一番効果的なやり方である。さらに任命の経緯を見ても劉繇は曹操とは協力を得られる立場にあり,南北から袁術を攻撃しつつ,江東に勢力を広げて行けば,自らが江東に大勢力となることも十分に可能だったはずである。ただ彼は戦略面では間違った選択はしていなかったが,事が戦術,つまり軍事の事となると数の論理しかできなかったのではないだろうか?その点,孫堅以来の軍事のスペシャリストたちと張紘・張昭・周瑜と言った背後から孫策を支える人材を抱え,自らも天才的な用兵家である孫策は,戦術面で劉繇を凌駕していたのである。
- さて,敗戦を重ね,配下も心許無くなった劉繇であるが,まだ人材が潰えたわけではなかった。彼の元には高名な許子将がおり,さらには数々の豪傑的エピソードを持つ太史慈も曲阿に来ていたのである。許子将は当時最も高名な士人の一人であった。月旦と呼ばれる人物批評で中国の政界でも知らない者はいないほどの大物である。許子将が劉繇に従軍していたということは,劉繇自身も決して無能であったり,非道な人物であったはずがないことを示している。
- 太史慈は徐州・東萊郡の出身で劉繇の元に来るまでに,数々の豪傑としてのエピソードを持っていた。(太史慈伝で書くことがなくなるからここでは触れません^^;)二人は対孫策の切り札であり,劉繇は二人をフル回転させて孫策に立ち向かうべきであった。が劉繇は許子将の言動を尊重しすぎ,太史慈を活用しなかったのである。許子将の人物批評は一定の評価を持っていて,確かに正しい批評も多いだろうが,許子将もまた軍事に関しては門外漢だったのである。政治・戦略については許子将を頼り,軍に関しては一切を太史慈に任せるというのが劉ヨウの取れる最善の策だったはずである。しかし劉繇は許子将に全てを委ねてしまった。この辺に劉繇の乱世を生き抜く群雄としての限界が見られるのである。
- 結局,太史慈を大将軍にすべきだという意見もあったものの,劉繇は太史慈のような前科のあるものを用いると許子将に軽蔑されると恐れて,太史慈には偵察の任しか与えなかったのである。しかし太史慈はその偵察中に,孫策を倒す一発大逆点の機会を拾ってくる。なんと偵察中にばったりと孫策と出くわし,正史ではめずらしい一騎討ちをやってのけるのである。演義の世界では武将同士の一騎討ちは戦場の花としてたくさん描かれている。が正史ではほとんどそのような記述はない。これは当たり前であり,軍を率いる武将同士の一騎討ちで勝敗が決するなら,軍など必要ないのである^^;。あるとすればかなりの小規模の戦いか,よほどの乱戦となり,偶然武将同士が遭遇する可能性くらいである。(後の魏呉の激突で孫権が張遼とニアミスする場面が書かれている。張遼はあれが孫権と分かっていれば捕まえてやったのにと悔しがっている。)
- この遭遇戦は太史慈伝にくわしく書かれている。太史慈は騎兵を一人従えて偵察中だった。そこに騎兵13人(その中には韓当・宋謙・黄蓋が入っている)を従えた孫策がやってきたのである^^;。(オイオイなんでそんな軽装で孫策が歩いているんだ^^;)しかも太史慈は単騎で敵に囲まれた城から抜け出すほどの豪傑である。孫策危うし!!っうか偵察くらい他の武将に任せろよ孫策(T▽T)。だがなんと孫策は太史慈と互角の勝負をやってのける。太史慈は孫策を見つけるとまっしぐらに孫策に突き進み戦いを挑む。が孫策も負けじと太史慈を馬から突き落とし,太史慈の隠し持っていた手戟(しゅげき。暗器の一つで投げて敵を倒す武器である。太史慈は最後はこれで孫策を射止めるつもりだったと思われる。)を奪い取る。太史慈のほうでも孫策の首に焦点をしぼり,孫策の兜を叩きのめす。(ああ・・・(T▽T)危ねぇ・・^^;)ここで異変に気付いた韓当らが駆け寄り,両雄は左右に別れる。太史慈は千載一遇のチャンスを逃してしまった。しかしまあ互角だったから良かったものの^^;,おそらく帰ってから張紘あたりに孫策はたっぷりと絞られたであろう^^;。先陣に立つのもほどほどにしてもらいたい。 ▲▼