【 謎の死 】
  • もう分かっている事だから始めに書いてしまう。孫策は曹操の本拠である許都襲撃のために軍を進めていた。が,ここで謎の死を遂げるのである。孫策の死の原因は,父・孫堅の時に輪をかけて不可解である。正史の記述を見る前に,諸三国志系小説・漫画での孫策の死のとらえ方を見てみたい。
    • (注)これも後で孫賁伝で書いた通り。廬陵制圧は200年3月頃と思われる。で、孫策が死亡したのが200年4月。この時点で孫策軍の軍属は各地に分散しており、臨戦態勢にない。許都襲撃ができる状態にないのである。孫策が許都襲撃を予定していたかどうかは定かではないが、少なくとも軍は起こしていないのである。
  • まずは横山三国志。横山三国志では孫策は曹操に暗殺されたというとらえ方である。孫策が死ぬ前に曹操と郭嘉とおぼしき人物が何やら密談していて,その後に孫策が死ぬ。これには根拠もある。魏書郭嘉伝の中に『孫策は江東を平定したばかりで情勢は安定しておらず,私の観察では必ず刺客の手に落ちる。』と言っている場面があるのである。しかもその直後に孫策が刺客によって殺されるので,これはいくら郭嘉が優れているといっても,人の生死まで予測できるはずがなく,出来過ぎである印象を受ける。そのために郭嘉は孫策暗殺の計画を知っていたか,もしくはそれに加わっていたという推論は成り立つのである。許貢がもし,曹操と連絡を取っていたとするとありえない話ではない。しかしこの説も考えすぎという気がする。裴松之が注で書いているように,郭嘉は江東がまだ不安定である点と孫策が自らの強さを過信しすぎて近辺警護が甘くなっている点を指摘しただけで,おそらく孫策が直後に死んだのは,ただの偶然と見るのが普通だと思う。
  • 次に蒼天航路。蒼天航路ではさすがによく分析されていて,于吉の呪いだとか妙な説は取っていない。許貢の息子と孫策に弾圧された宗教勢力が結びつき,孫策暗殺を計画したという説である。しかもその背後には劉表の策謀をちらつかせている。ありそうな話であるが,劉表が関係しているというのは,いささか劉表を買かぶりすぎという気がする。
  • 次に『長江燃ゆ。』これは伴野 郎さんによる,おそらく日本で初めて(世界か^^;?)の孫堅・孫策を主人公とした小説である。大変面白いのでぜひ読んでほしい。(私は小説すばるの増刊号で読んだので,今単行本として出ているかどうかは知りません←無責任^^;。)そこでは仙人と化した于吉との行き違いと許貢の刺客によって孫策は命を落とすという,正史での記述を全て組み込んだかのような説になってます。伴野さん自身が後記で書いているのですが,どうやら伴野さんは孫堅伝は乗って書けたが,孫策伝はなぜか乗らなかったようで,孫策の死も正史そのままになってしまったようです。
  • 最後に陳瞬臣さんの『秘本 三国志』。これはおそらく日本初の曹操を主人公とした作品で今でも人気を誇っています。今,手元にないのでうろ覚えですが,陳氏は孫策は人を殺しすぎたため,恨みを沢山買っていた。思いやりに欠ける孫策より孫権の方が君主として優れていた。といった感じでした。秘本 三国志は面白いのですが,孫策の扱いはイマイチで不満を覚えた記憶があります。しかし人を殺しすぎたというなら曹操はどうなるんでしょう?彼は徐州で虐殺と言って良い大殺戮をしています。恨みなら曹操も沢山買っているので,それを持って君主としての資質を問うのはどうかな?と思ってしまうのですが^^;?さらに孫権に思いやりがあったというのはどうも^^;。彼,かなり酷いことしてますし^^;それに反乱勢力は徹底的に叩くべしというのは,古今東西共通だと思います。孫策が反乱勢力を徹底的に叩いたのは,思いやりに欠けていたとは思えません。
  • それらを踏まえた上で,正史に書かれている記述はどうなっているのか?陳寿の本文は,許貢の末息子と許貢の食客は長江のほとりに逃れ住んでいたが,ある日孫策にばったりと出くわし,食客が孫策に重傷を負わせた。というものです。おそらくそれが全ての真実でしょう。それに裴松之の注がついて大量に異説を述べています。
    • 『呉録』より。ある者が高岱(こうたい。許貢と確執があった。)と孫策を罠にはめようとしたことが書かれています。高岱を孫策に殺させると同時に,孫策に恨みを買わせる策謀です。ある者とは許貢の関係者である確率が高いですね。
    • 『江表伝』より。于吉(うきつ)という道教(太平道とか五斗米道といった張角や張魯の宗教と同じです。)の道士の事が書かれています。皆が于吉を信仰するので,孫策は彼を殺すように指示を出します。母親の呉夫人は『于吉は立派な人だから殺してはいけません。』と言うが,孫策は『宗教家が政治に口出しするのは亡国の元だから許してはならない。』と言って于吉を殺します。
    • 『志林』より。江表伝の記述の矛盾を指摘しています。さらに昔,于吉の弟子が順帝に『太平青領書』という于吉が手に入れた書物を献上したという記述を挙げ,当時もし于吉が生きているとしたら100歳近いはずだ,と述べています。
    • 『捜神記』より。孫策は于吉を捕らえますが,孫策は于吉に『雨を降らせる事ができたら許してやろう』と言います。于吉が天に祈った所,どしゃぶりの雨が降ってきます。しかし孫策は于吉を許さず,処刑します。
    • 『江表伝』より。陳登(ちんとう)は孫策の後方を攪乱しようと,厳白虎の残党に官位を与えます。そのため,孫策は陳登討伐の軍を丹徒まで進めますが,そこで孫策は休憩中に狩りに一人で出かけます。その時に許貢の食客に出会い,彼らを斬り殺しますが,孫策も頬に矢傷を負います。
    • 『九州春秋』より。孫策の許都襲撃は計画が十分でなかったので,孫策は災難に遭ったのだ,としています。
    • 『異同評』より。孫策が許都を襲撃しようとしたという説に対して,当時孫策は江東を平定したばかりで,そんな余裕はなかったはずだとしています。また孫策の死と官渡の戦いが始まった時間の経過から,孫策は許都を襲撃しようとしたのではなく,陳登の討伐の最中に死去したはずだとします。また江表伝と九州春秋の矛盾をつき,ひどい間違えだと言ってます。またそれに対して裴松之は,孫策は江東を平定したばかりとは言ってもほぼ反乱勢力を押さえ込んでおり,許都を襲撃する余裕はあったはずだと言ってます。
    • 『呉歴』より。孫策は負傷したあと,医者に『致命傷ではないが100日は動いてはダメ。』と言われるが,鏡に映った自分の姿を見て『こんなにやつれて,大志を成し遂げることなどできるか!!』と激昂し,傷口が全て開いて死亡した,とあります。
    • 『捜神記』より。孫策の傷は直りかけていたが,于吉の亡霊が現れ,孫策を呪い殺した,とあります。
    とまあ,大量の異説が述べられています^^;。
  • まず于吉についてです。おそらく江東には于吉のような宗教家が勢力を持っていました。孫策はそれら宗教勢力を弾圧したので,当時のまだ神秘的世界を信じる人々は,孫策が死んだ事と,そういった宗教家の呪いを結びつけたのでしょう。はっきり言うと,孫策が宗教勢力を躊躇なく叩いたのは,彼が迷信を信じなかったからであり,それは孫策の不名誉でもなんでもありません。むしろ妙な宗教や迷信に惑わされる人々より,孫策は進歩的だったのです。また呉夫人は聡明な人物であり,孫策と部下の行き違いを正したりはしてますが,彼女が宗教勢力を擁護したとは思えません。カルトな宗教勢力は孫一門にとって敵だったのですから。
  • 次に許貢の息子とそれに従った食客たちについてです。孫策は確かに,反乱勢力や不穏分子を躍起になって叩いています。しかしそれは江東を統治するものとして,やらねばならぬ事であり,処罰された人々の恨みまで考慮している時間的余裕はありませんでした。孫策は父,孫堅の遺産を受け継ぐことはできませんでした。孫策が江東制圧を開始した頃,すでに袁紹・袁術・曹操・劉表・陶謙らは確固とした基盤を得ており,ここで孫策はゆっくりと時間をかけて江東を支配していく道は選べなかったのです。孫策は急いで江東を刈り取る必要がありました。それが孫一門が群雄として生き残る唯一の道だったのです。ですから孫策が江東制覇のために,敵対する勢力をしらみ潰しにしたことが非難に値するとも思えないのです。
  • となると,孫策がいけなかった事はただ一つです。あまりにも保身に無防備すぎた事です。やはり戦場で先陣を切って兵卒と斬り合ったり,単独で偵察や狩りなどをしていては,いくら孫策が武勇を誇ろうとも,こうした危険は多すぎたのです。張紘や張昭が何度も諌めた点もそこでした。その点,曹操は警護は怠りなかったですし,典韋・許褚といった豪傑を常に身近に従えて行動しました。だからこそ,張繍に急襲された時も曹操のみ生き残る事ができました。劉備も同じです。劉備もどちらかというと無謀な方ですが,常に関羽・張飛らと共に行動しましたし,晩年の彼からはそうした無謀さも消えうせます。孫一門にも周泰や太史慈・程普に韓当と君主の危機を命を張って救える人物は多くいたのですから,せめて彼らと近衛兵とは身近に置いておくべきでした。ただこの性格は孫一門には,つきまとう性格だったのかもしれません。実は孫権も虎狩りをしたり,戦場で敵将の近くでさまよったりと危険な事をやってくれます。孫権は長寿と運に恵まれただけです。後に貴族化した孫権の息子たちは別として,孫堅・孫策・孫権の三人は底辺から這い上がった武門の漢であり,そこが孫家の魅力でもあるわけです。
  • さて,死の淵にあっても,孫策には,やっておくべき事がありました。自分の死後,起こるであろう部下の離反と孫一門の分裂を最小限に留める方策が必要だったのです。孫策は配下の分裂を食い止められる人物を張昭と見込んで,彼に自分の後継者の補佐を託します。さらに後継者として,孫策には孫紹(そんしょう)という後継ぎがいましたが,孫策は息子ではなく,弟の孫権を指名するのです。これは孫策が自分の子孫の繁栄より孫一門の繁栄を願ったこと,それに死の淵でも冷静に人物の評価が出来ていた事を示しています。孫策は孫権に言い残します。『軍団の総大将として,天下の群雄たちと覇権を争うことではお前(孫権)は俺に及ばないが,人材をうまく活用して江東を守り通すことではお前の方が上だ。しっかりやれよ。』孫策は孫権の人物像もしっかりと見抜いていたのです。孫策はこの時,まだ26歳。20歳で兵を起こし,わずか6年の間に孫家の基盤を作り上げた孫家最大の英傑でした。