【 不遇の時代 】
- 江都で暮した2年間の間,孫策は今後どうしていくかを考えたであろう。しかし孫堅軍団は孫堅死後,孫賁に率いられ袁術旗下にあった。精強を誇った孫堅軍団は解体され袁術軍に併合されている。後に袁術が孫策に返した兵は千人強。孫堅軍が千人ということはありえない。これは袁術が出し惜しみしたのではなく,孫堅軍自体がすでに存在していなかったのである。具体的に言うと、旧・孫堅軍団は孫賁・呉景・朱治などの部隊に解体され、それぞれが独立行動を行っていた。乱世に置いて2年間の空白というのは、決定的なマイナスポイントなのである。
- (注)孫堅の死は孫呉勢力にとってはマイナスだったが、袁術にとっては必ずしもマイナスとは限らない。孫堅は豪傑としての名声も高く、袁術旗下とはいえ、軍閥化しており獅子身中の虫という風情もあったからだ。だから孫堅死後、孫軍閥を解体するのは自明の理であり、賢明な選択である。袁術の誤算は孫策のみだった。こんな若造が孫軍閥を再結成し、江東に割拠するなど予見できなかっただろう。
- いずれにしても孫策には自分の率いる軍と部下が必要だった。当時,孫策に従ったのは呂範と孫河(そんか)の二人だけであった。呂範は孫策が江都に居た頃に孫策に出会い,旗下に参じている。(呂範伝に呂範は陶謙に袁術の間者として見られ,拷問にかけられたとある。孫策が陶謙に嫌われたのも同じ理由だったと考えられる。)孫河は孫堅軍団で近衛兵を指揮するなどで活躍した人物。一族の中でも孫策に従うのは孫河だけであった。当然といえば当然で,孫堅軍団の棟梁は孫堅の後を継いだ孫賁であり,孫賁が袁術に従うのならそれに従うのが筋となる。まさにこの頃は,孫策不遇の時代だったと言える。呂範伝にも孫策・孫河・呂範の三人には危険が絶えることがなかったとあり,孫策が身を寄せた丹陽郡で集まった数百人の兵士たちも,その頃,揚州に勢力を持っていた反乱軍・祖郎(そろう)の襲撃を受け,壊滅する。孫策は0からのスタートだったのである。
- 194年,孫策は袁術の元に出向き,正式に父孫堅の後を継ぐ意思を表明する。袁術の周りの情勢は,孫堅と組んで戦っていた頃に比べ曹操の圧力が大きくなっており,豫州をめぐる袁紹・曹操との争いに敗れ,揚州方面に勢力圏が移っていた。孫堅の息子が自軍に参じたのは朗報だったと思われる。どう考えても孫策は孫賁より上の人物であった。袁術にしてみれば,この孫堅の息子を自分の勢力拡大のためにうまく利用する腹だったと思われる。孫賁は揚州討伐もうまく行かず,あれよりはこの闊達そうな若者の方が物になりそうだ。うまく使えば父孫堅までには行かなくてもそれなりに使えよう。そんな所だろうか?袁術は孫策に元の孫堅の部下と兵を返すが,その数は千人強に満たない。だが孫策の元に程普・黄蓋・韓当らが帰ってきたのである。帰ってきたという言い方は語弊があるかもしれない。程普・黄蓋・韓当ら孫堅旗下の武将たちとはこの時が初対面だった可能性すらあるからである。しかし,ここからが孫策の時代の始まりと言っていいだろう。
- この袁術が孫堅の兵を孫策に返した経緯は注で異聞が書かれている。孫策は江都で親しくなった張紘に老母と幼い兄弟を預ける。その後,袁術の元に行き,孫堅の後を継ぐ意思を表明するが,袁術は始め孫堅の兵を返そうとせず,丹陽太守・呉景はお前の叔父だし,従兄弟の孫賁もいるから,そこに行って兵を集めよ。と言う。孫策はそこで数百人の兵を集めたが,祖郎の襲撃に遭って壊滅する。そこでもう一度,袁術に面会して,やっと孫堅の兵千人強を返してもらったとある。エピソード的にはこちらの方が袁術っぽいが,自分を頼って来た者に対して,自分で軍を集めろというのはいくら袁術でもそこまでケチるか??という気がするし,もしケチったなら,兵集めに失敗した孫策に二度目は兵を返すというのがちょっとおかしい気がする。ここでは本文の記述順の通りの説を取ることにした。 ▲▼