【 父亡き後 】
- 父孫堅戦死・・・。この知らせを孫策はどこで聞いたのだろうか?孫堅伝で書いたように孫堅死後,孫堅軍団は孫堅の異母兄弟の子の孫賁によって率いられ袁術の元に身を寄せている。おそらく孫策は孫堅の軍には従軍していない。孫策伝を読んでも孫堅が家族と共に暮したのは長沙太守任命以前までであり,孫堅は長沙に単身赴任していた。反乱が頻発に起きていた荊州南部に家族を住ませるのは危険だったのかもしれない。孫堅が長沙太守になったのは187年。つまり孫策は孫堅が死去する191年まで5年近く父とは会っていない。孫策は父の死を揚州・舒で周瑜と共に聞いた可能性が高いのである。もし孫策が孫堅軍に従軍していたらどうなっただろう?
- しかし実際には孫賁は孫堅の遺体すら引き取らずさっさと袁術旗下に収まる。孫堅の遺体は,孫堅に推挙されたことがある桓階が,危険を顧みず劉表と会見して遺体を引き取り,息子の孫策に引き渡すのである。遺体を引き取った孫策は父の遺体を曲阿(きょくあ)に葬る。孫策はどんな気持ちで遺体を引き取ったのであろうか?なんとなくその時の気持ちが読める記述が注に載っている。孫策は父の死後,受け取るはずの鳥程侯の爵位を,そんなものいらないとばかりに弟の孫匡(そんきょう)に譲っているのである。これはどうしたことだろう?これを読んで私が思い起こしたのは織田信長が父,信秀の葬式で位牌を投げつけた一件。孫策もこの時の信長と同じような心境だったのではないだろうか?父よなぜ死んだか。父はもっと偉大な英雄ではなかったのか。なぜこんな所で死んでしまったのかと。
- 孫策は葬儀を終えると長江を渡って江都に移り住む。この後,周瑜と再会するのは孫策が江東制圧の軍を起こしてからになる。揚州というより徐州に近い江都に居を構えた孫策は,なぜか徐州牧・陶謙にひどく嫌われる。この嫌われ方は相当だったようで,孫策は陶謙に母が危害を加えられるのを恐れて,母を曲阿に移らせて,自分は丹陽太守である叔父の呉景の元に身を寄せるのである。州牧の陶謙が無官の一青年であるはずの孫策をそこまで嫌う理由はなんなのだろう?
- 簡単に言うと、この時期の孫策はあくまでも袁術陣営の一員と見られていたという事である。父・孫堅は袁術陣営の猛将だったわけで、その子孫策も同様に見られていた。そして袁術のこの時期、寿春に拠点を置き、徐州を虎視眈々と狙っていたわけだから、陶謙からすれば、州内に袁術と関係の深い、孫氏の一族が住んでいるのは、警戒するに越したことはないのである。
- また陶謙が、道徳観念的に正道な人物であるならばともかく、陶謙どちらかというと武官畑、しかも徐州の賊と手を組んだり、張昭を配下にならないからと言って禁固したりしたという逸話も残っている人物で、この際、孫一族を抹殺しようと考えかねない所があった。いずれにしても,身の危険を感じた孫策は丹陽太守,呉景の元に身を寄せる。 ▲▼