【 荊州借用問題 】
  • 赤壁の戦いの後,合肥・徐州への侵攻が失敗に終わったため,赤壁の戦果は周瑜が気力で落とした南郡(江陵)のみとなってしまった。孫権は周瑜を南郡太守・程普を江夏太守とした。また,劉備は軍を南郡の長江南岸にあたる公安に駐留させた。この配置は北側の曹操と面する場所を孫権が支配し,南側の安全な所を劉備が支配した形となる。さらに孫権は劉備に対して,荊州南部の四郡は劉備が自由に切り取って良い,という約束をしたと思われる。劉備伝の注に見える『劉備に長江南岸の地を割いて劉備に与えた。』というのがそれにあたるだろう。孫権はこの頃,荊州南部の長沙・武陵・零陵・桂陽の四郡には支配が及んでおらず,与えたという表現はおかしいだろう。おそらくこれは南部四郡への劉備の優先占領権を認めたということだろう。これが後に問題となる荊州借用問題である。劉備にしてみれば自力で切り取った土地であり,孫権にしてみれば自分が攻め取ることができたが,劉備のために貸し与えた土地ということになる。
    • (注)えーっと、色々と言いたいことがw
      まず「長江南岸の地を割いて与えた」というのは、公安のみを指していて、南部四郡の事ではない。
      次に孫権に劉備の南部四郡の優先占領権を認める権限などない。権限があるとしたら荊州牧・劉琦である。その劉琦はこの頃、すでに病身で実際に権限を持つのは劉備である。
      で、江陵も南部四郡も孫・劉連合軍で切り取った。江陵戦には関羽・張飛が参加し、南部四郡攻略には周瑜が兵を割いている。そこに勢力区分はない。だから荊州は貸したなんてのは劉備からしたら、ただの言いがかりである。詳しくは魯粛伝を参照のこと。
  • ここで荊州をめぐる劉備の処遇に対して,周瑜と魯粛の意見の相違が出てくる。簡単に言うと周瑜の考えは天下二分の策・魯粛の策は天下三分の策ということになる。周瑜は劉備に荊州を貸し与える必要などなく,呉が荊州・益州から漢中を攻め落とし,曹操と対立する,という構想を持っている。対して,魯粛は始めは周瑜と同様の考えを持っていたが途中から,劉備と協力して曹操を叩く方べきであり,そのためには荊州を劉備に貸し与えた方が良いという構想に変わっていた。周瑜の策は自らの軍事能力への自信から出る,武人的思考を含んだ考えであり,魯粛の策は強力な曹操に対抗するには同盟者が必要だという,外交的思想を含んだ考えである。
    • (注)これも逆。言いだしっぺは魯粛。二分とか三分とかは重要ではなく、「曹操に対抗するためには長江流域を悉く占拠する必要がある。そのためにどうするか?」という事が周瑜と魯粛の差である。これは私見になるが、「長江流域を制圧するため」に「劉備という神輿を担ごう」というのが周瑜案、「長江流域を制圧するため」に「劉備を使い倒そう」というのが魯粛案だと思っている。詳しくは魯粛伝を参照。
  • この両者の考えの相違は,劉備が荊州借用を願い出るため,京城にやってきた時に炸裂する。周瑜・甘寧・呂範らは,『劉備に先んじて蜀を奪い,この際,劉備には京城で留まってもらいましょう』と進言する。いわば天下二分策支持者による一斉進言である。それに対して魯粛は『曹操は敗れたとはいえ強力で,呉一国では対抗するのに心許無い。むしろ劉備に荊州を貸し与え,曹操の敵を増やす方が良い。』という進言を行っている。結局,孫権は両者の中庸策とでも言うべき,共同作戦による益州攻略を劉備に持ちかけるのである。しかし劉備は『劉璋は私と同族だから攻め取るなんて気はありません。』と言う。荊州を劉備が支配している以上,孫権が荊州を越えて,益州に進軍することはないだろうという読みからの言葉だろう。結局,この提案は劉備の老獪さによって拒否される。
  • しかし,周瑜はあくまでも呉単独での益州攻略を目論む。が,周瑜は巴丘で益州攻略の準備中に死去する。この周瑜の死によって,呉による単独での益州攻略は頓挫した。益州攻略には周瑜の軍事能力が不可欠であり,周瑜がいなければ成り立たないのである。なんとも惜しい周瑜の死である。周瑜も自分の寿命が尽きた以上,天下二分の策は実行不可能である事を悟り,後任に天下三分の策を持つ魯粛を指名する。孫策といい,周瑜といい,自分の立場を乗り越えて,自分の死後,後任に最も有益な人物を選んでいる。まさに英傑であろう。孫策と周瑜の早すぎる死は呉にとってあまりにも大きすぎた。結局,劉備は益州攻略に乗りだし,孫権は『あのペテン師め!!』と激怒する。しかし激怒しても遅い。この頃の孫権は良い様に劉備にあしらわれた感がある。若さゆえの経験不足であろう。この時点で劉備と孫権の器量の差は歴然としている。だがこの関係は,後に孫権が乱世を生きる群雄として鋭さを身につけた時,逆転するのである。