【 後を継ぐ者 】
  • 孫権の兄,孫策は瞬く間に江東・江南を制圧した。まさに飛ぶ鳥落とす勢いであった。さらに孫策は中原に飛翔すべく許都急襲の計画を立てる。しかし突然の悲報が駆け巡る。
    • -孫策,刺客の手に落ちる。-
    わずか7年の間に江東・江南を制圧した英傑が刺客の手に落ち,死を免れない事態に陥ったことは,孫家にとってまさに一大危機だった。孫策は死の淵で今後の事を考える。
  • まず,孫策は孫家の後継ぎを巡り,孫家が空中分解するという最悪の事態を防がなくてはならなかった。しっかりと後継者を定め,その後見人に最も発言力のある最重要人物をつける。孫家にとって最重要人物とは文官では張昭であり,武官の中では周瑜になる。。周瑜はまず問題なく,孫家のために最善を尽くしてくれるはず。となると必然的に後見人は張昭である。次に誰を後継者に指名するか?孫策には選択肢として
    • 息子の孫紹
    • 父孫堅の次男の孫権
    • 三男の孫翊
    • 四男の孫匡
    の4つがあった。普通なら息子の孫紹であるが,この時孫策はまだ27歳。息子の孫紹は年端もいかぬ赤ん坊であり,乱世の真っ只中にそれはできなかった。少なくとも孫策は自身の子孫の栄光のために孫家を傾かせるような愚は犯さない。となると後継者は孫策の弟たち,孫権,孫翊,孫匡である。この3人のうち,孫策の面影を最も残していたのは三男の孫翊だった。張昭は後継者として孫翊が良いのではないかと考え,孫翊を推薦したようである。孫家の部下たちは孫策に忠誠を誓っていたのだから,その孫策の面影の少しでも多く残している者に後事を託すべきという張昭の進言も納得できる。が,孫策は孫翊ではなく孫権を指名する。孫策のような軍事的天才はそうそう出没するものではなく,孫策と同様の期待をするのは難しいということを孫策は分かっていたのではないだろうか?孫権は兄孫策とはまた違った何かを持っていた。その何かを孫策は期待していたと思うのである。
    • (注)まず、孫家の後を継ぐ・・というイメージから脱却したい。孫権は孫呉王朝を引き継いだのではない。あくまで「会稽太守」孫策の後を継いだ。孫策の実子が年端もいかない赤子であるなら、次は弟が継ぐのが自明の理である。そこにそれほどの違和感はない。張昭は孫翊が良いと考えた、と孫翊伝注「典略」にあるが、あまり気にしなくて良いと思う。会稽太守は自然に孫権である。後見人が周瑜ではなく張昭なのも当然と言えば当然。周瑜は当時、中護軍として軍属をしきる立場であり、「会稽太守」を補佐する立場ではない。会稽太守を補佐する立場にあったのは、会稽太守・孫策の長史(補佐官の長)であった張昭で間違えない。
      逆を言えば、孫権は「会稽太守」であって、それ以上でもそれ以下でもない。大事なのは、丹陽・呉・豫章が「孫策在命時と同じように、会稽太守(孫権)をこのグループの長として担ぐかどうか?」である。丹陽は呉景、呉は朱治、豫章は孫賁・孫輔。孫策と共に江東割拠に尽力した彼らが、孫策亡き後、弟の孫権をリーダーに仰ぐ必要があるかというと、必ずしもない。まとめ上げる力があるなら、誰がリーダーになったっていいし、まとめ上げる力が誰にもないなら個別に分離することになる。で、この太守たちの押さえとして重要だったのが周瑜である。彼らより格上の名士であり、呉景・孫賁らと同様、袁術から離れ、孫策に従った周瑜が孫権をリーダーとして担げば、呉景・孫賁らは、従わざるを得なくなる。周瑜がいなけりゃ、呉景も孫賁も朱治もこのグループをまとめることなんてできない。
      よって、孫策死去時、「会稽太守・孫権」を支えたのは長史の張昭で間違えない。彼は下記のように、まだ事態をよく把握していない孫権を必死で盛り立て、会稽太守としての引き継ぎと事務を遂行させた。しかし、張昭はあくまで事務方の長に過ぎないので、「会稽太守・孫権」を丹陽・呉・豫章がリーダーとして担いでくれるか?ということにはなんの影響もできない。そこに影響力を与えられるのは周瑜であり、周瑜が孫権に臣下の礼を取ったことで、江東に割拠する孫呉勢力の瓦解は免れた。孫策死後、張昭と周瑜が孫権を支えたというのはそういう意味である。
  • 後事を託された孫権とその後見役の張昭。二人にとって,まさにここが正念場である。しかしこの時期,孫権は兄孫策の死に動揺しており,ただ頼りにしていた兄孫策が死んだ事への悲しみに暮れていた。むしろ,孫策死亡後,最も奮闘していたのは,孫家の今後の補佐を託された張昭である。張昭は喪に服している孫権を引きずり出すと,馬に乗せ,各部を巡察させる。孫策死後も孫家は健在であることを示させたのである。さらに朝廷に孫権が後を継いだ事を上奏し,支配区域の郡・県に文書を手配して『孫策死後も孫家は健在である。各自それぞれの職務を以前と変わらず遂行するように。』と命じる。孫策に使えた文官は北方から戦乱を逃れてきた士人が多く,その代表格の張昭が孫権を支え奮迅したため,士人の離反を最小限に防ぐ事ができたと言えるだろう。はっきり言うと孫策が死んだ時点で江東の人材が孫家から離れ,孫家は空中分解してもおかしくはなかったのである。孫策の後見役の人選も確かであり,それを受けた張昭も,後事を託され王佐を行うのは士人の本懐とばかりに,目覚しい動きを見せた。
  • 孫策が後継者と後見役の指名を適切に行ったことと,張昭が孫権を必死で支えたことにより孫家の危機の第一段階は回避できた。しかし孫策死後,配下の動揺は避けられない状況であった。