【 離反と反乱 】
  • 孫策死後,孫家の空中分解の危機は孫策の適切な後継人事と補佐を託された張昭のふんばりによって回避できた。しかし危機はそれだけではない。部下の離反・外部からの侵食・反乱勢力の再発など多くの危機が内在していたのである。
  • 孫策旗下の武将はいくつかのグループに分類できる。
    • 孫堅以来の古参の武将たち・・・代表格 程普・黄蓋・韓当
    • 北方から江東に避難してきた士人たち・・・代表格 張昭・張紘
    • 揚州の士人・豪族たち・・・代表格 周瑜・朱治
    • 孫策が育成した武人たち・・・代表格 蒋欽・周泰
    • 降服者・・・代表格 華歆・虞翻・太史慈
  • 1の孫堅以来の古参の武将たちは孫策死後と言えど,後継者となる孫権が相当な暗君でない限り,即離反という可能性は低い。また4の孫策が身分に関係なく取り上げた武将たちはまだまだ重要な地位にはおらず,また恩義の面からも離反は考えにくい。となると怖いのは2の北方から避難してきた士人が再び北方に帰ってしまう可能性・3の揚州の豪族・士人たちの離反・5の降服者の離反である。
  • では,離反させないためには何が一番有効か?それはそれぞれのグループのトップと言える人物を抑えることだと思われる。そういう意味で後見役に北方からの参入者の代表格である張昭をつけたのは大正解である。では3の揚州の士人たちの抑えは誰になるかというとそれは周瑜になる。周瑜は孫策死後,率先して臣下の礼を取り自分の立場を明らかにする。それによって情勢を見ていた揚州の士人・豪族たちもそれに習って臣下の礼を取ることになる。張昭と周瑜の二大巨頭が孫権を支える側に回った事は大きかったと言えるだろう。
  • だが完全に離反の動きがなかった訳ではない。まずは魯粛である。魯粛は揚州北部の大豪族で,周瑜が袁術の元から逃亡した時に,周瑜と共に江東に移住して孫策に目通りしている。だがこれからという時に孫策が死去してしまった。さらに友人の劉曄から誘いを受け,どうやら曹操に付こうとしていたようなのである。しかし周瑜がそれを止め,孫権に『魯粛は才能があり,よそに行かせてはならない』と進言して,孫権と魯粛の会談を実現させる。それにより魯粛の離反は食い止められた。この時魯粛が曹操に付いていたら歴史は変わったかもしれないのである。
  • さらに華歆である。華歆は元の豫章郡太守であり,孫策に下った経緯も孫策に信奉して従ったというより,情勢により孫策に従った感がある人物である。華歆は孫策死後,曹操に上奏され許都に戻ろうとする。孫権は華歆を引き留めようとするが,華歆は『別にここにいなくても都から孫権様のためにしてあげられる事はいっぱいありますよ。』と言う。つまりその頃,許都にいた張紘のような役割ができるよと言っているのである。そこで孫権も華歆を都に行かせるが,張紘と違ったのは華歆は二度と戻ってこなかった点である。華歆の場合はいつか北方に戻る機会を探っていたといって良いだろう。さらに虞翻にも曹操の誘いがあったようである。つまり曹操は元の揚州の郡の官職にあった者たちを呼び寄せようとしていたようである。虞翻は曹操の誘いを拒絶した。
  • 以上の例は単独の離反であるが,それより怖いのは反乱である。呉書の各伝の中にも反乱があった事が書かれている。まずは山越の反乱。山越は孫家の危機には必ず暗躍しており,孫策死後,山越の乱が起きるのは必死であった。虞翻はその頃富春県の令をやっていたが,山越の蜂起が必死の状況であり,任地を離れる事ができず,孫策の葬儀にすら,かけつける事ができないほどであった。また程普伝にも孫策死後,山越の乱が頻繁に起きた事が記述されている。程普は最古参の将として張昭と共に孫権を盛り立て,各地で起こった反乱の平定を行っている。
  • さらに驚くべき事には,孫家一族の離反・反乱が結構あったらしいという事である。虞翻伝の中に孫策の従兄に当たる孫暠(そんこう)は会稽郡の占領を画策していたという記述が出てくるのである。この反乱は虞翻の説得により未発に終わった。さらに盧陵郡太守・孫輔の離反騒動がある。孫輔は孫賁と共に江東制圧に奔走した人物であり,この人物の離反騒動は孫家に大きな影響があったと思われる。孫輔は孫策死後,曹操とよしみを通じようとする。しかしそれが露見したため,孫輔の側近は全て斬首され,部曲(私兵)は分割,孫輔は東方に強制移住となる。
  • これらの離反・反乱騒動には曹操の影が見え隠れする。孫策死後の曹操の対応は孫権に取って脅威であった。ただしそれらの離反・反乱騒ぎがほとんどが未遂に終わった事は孫権にとってラッキーだったかもしれない。もちろんそれは張昭らが内部を固めたために未遂に終わったのであろう事が考えられる。しかしついに大きな反乱が起きる。廬江太守李術の反乱である。 
    • (注)今読み返すと、的外れな感じもしないでもない。華歆が北に帰るなんて当たり前。強制的に太守から隠居させちゃったんだから。むしろ虞翻・魯粛はよく残ったね、という感じ。
      まず、人材の重要度で区別する必要がある。孫権は会稽太守に過ぎないので、孫呉グループの他の太守たちの分離独立が最も怖い。丹陽の呉景、呉郡の朱治、豫章の孫賁、盧陵の孫輔、廬江の李術。この5名が最も重要である。
      この中で、李術は、そもそも袁術旗下の降将であると思われ、揚州刺史厳象を殺害するなど、孫策期から制御が効いていない。ここの離反はある程度、想定内だ。逆にこの中で最も信頼できるのが朱治。朱治は孫堅期から行動を共にし、江東割拠の構想を持つ孫策の思想ブレーンの一人。江東に割拠するという構想の危機に際しては、周瑜・張昭らと共に、孫権を盛り立てる立場を取っている。
      残る三名、呉景・孫賁・孫輔の三人が問題。この三人は全員「袁術を見限って孫策についた」孫家の親族。江東制圧に功績があり、孫権の下につくことを良しとしなかったとしても、なんの不思議もない。曹操はそこを突いてきている。呉景・孫賁・孫輔に孫権より高い将軍職を与え、分離独立を誘発した。さらに孫輔に対しては、交州刺史を与えた。孫権が会稽太守であることを考えれば、あからさまな分離・離反誘発である。孫賁の離反騒動は、孫権本記においてもサラッとオミットされているのだが、それくらいやばい事件だったと言えるだろう。よく、大事に至らなかったものだ。
      さらに、もう一つの孫家親族系列からも反乱騒動が出た。孫静の長子・孫暠の反乱である。つまり、孫家親族は全ての系列から反乱・離反が起きているのである。相当やばい状態だったと言える。
      この二つの離反・反乱騒ぎの特徴は、年配者(呉景・孫賁・孫静)は動かず、ある程度、孫権に年が近い人間が動いたということ。これは人生経験の差だろう。あるいは状況を見ていたのかもしれない。