【 孫権の人材登用 】
  • 孫権は当主となってから数年の間は,しばらく内政の充実と国内の情勢の安定化に終始することになる。孫策というカリスマを失った孫一門の不安定さを考えれば,この選択は正解だっただろう。慎重な孫権らしい選択である。
  • 孫権の体制の中心となったのは張昭である。後半はともかく,孫権政権の初期の段階では間違えなくそうだった。おそらく赤壁以前の張昭の功績は絶大だっただろう。内政に関しては張昭を師傅(しふ。助言役)として常に意見を尊重していた。また軍に関しては周瑜・程普・呂範を司令官として,山越の討伐を行わせている。
  • また,孫権は新しく人材の獲得を行っている。この時期大変多くの人材を孫権は集めているのだが,その中でも特筆すべきは魯粛(ろしゅく)・諸葛瑾(しょかつきん)の二名であろう。
  • 前述したように,魯粛は孫策死後,北方に行こうとしていたが,周瑜の推挙で孫権と目通りしている。魯粛というと,演義では冴えない中間管理職というイメージだが,正史では国のあり方を考え,長期的展望を持った革新的人物である。周瑜はその性格上,武人の匂いが強いが,魯粛は政治家として優秀さが目立つ人物だ。魯粛は孫権と目通りした時に,呉が今後歩むべき道を孫権に伝授している。詳しくは魯粛伝に回したいと思うが,簡単に言うと漢王朝の復興はもう無理だから,孫権は南の雄となって皇帝を名乗って新しい王朝を築きなさい。というものである。この考えは張昭ら清流派の人物からすると,とんでもない意見であり,当然の事ながら魯粛と張昭の反目は避けられない。しかし孫権は両者をうまく併用していくのである。
  • 諸葛瑾は張昭らと同様に,北方から戦乱を逃れ江東に移住した人物である。諸葛瑾は魯粛と並んで賓客として遇されて,後に孫権の長史(事務を統括する役)となり,後に中司馬(中央軍の軍事担当か?)になる。諸葛瑾は実にオールマイテイーな能力を兼ね備えた人物で,蜀との外交官・軍を率いる司令官・君主の間違えを正し諌める忠臣等,数多くの顔を持っている人物である。しかも謙虚な人物で,しばしば孫権と部下の行き違いを正し,接着剤的存在として地味ながら重要な役割を果たしている。孫権軍団にとって不可欠な人材と言って良い。
  • その他にも孫権は多くの人材を登用している。ここでは伝の立てられている人物のうち,初期に孫権が登用した人物を列挙してみる。
    • 文官・・・歩隲(ほしつ)・厳畯(げんしゅん)・陸績(りくせき)・張允(ちょういん)・駱統(らくとう)・是儀(しぎ)・闞沢(かんたく)・顧雍(こよう)
    • 武官・・・徐盛(じょせい)・潘璋(はんしょう)・朱然(しゅぜん)・朱桓(しゅかん)・呂岱(りょたい)・吾粲(ごさん)・陸遜(りくそん)
  • これらの人材を見ていった場合,孫策の時とはちょっと違う特徴が見られる。分類すると
    • 北方からの移住者・・・歩隲・厳畯・是儀・徐盛・潘璋・呂岱
    • 揚州の名家・・・陸績・張允・駱統・顧雍・朱然・陸遜
    • 身分の低い武人・士人・・・闞沢・朱桓・吾粲
  • 孫策の時は,文官は北方からの移住者・武官は身分の低い者を能力で採用するというのが基本ラインであった。それに対して孫権の場合,北方からの移住者に加え,揚州の地元の名家の人材を加えている例が多い。所謂『呉の四姓』と呼ばれる顧・陸・朱・張といった名家の人材が参入しているのである。特に陸家は孫策が袁術旗下にあった時に攻撃を受けており,陸家との和解は国家経営上大きい意義を持っていたと思われる。
  • 孫策の場合,揚州土着の名家・豪族とはことごとく反目した。孫策は周家と朱家の協力のみで,その他の名家を弾圧したのである。人材の不足は北方からの参入者と絶対能力主義で身分の低い者たちを抜擢して補った。それに対して孫権の場合,江東の名家と和睦して人材として加えて行った感がある。つまり孫策の場合は孫家の絶対優位を確立しようとして潜在的な敵を排除し,孫権の場合は土着の名家と協力して政権を維持しようとしたと考えられるのである。この選択は君主の絶対優位は確立されにくいものの,人材の幅は広がり,治安の上昇にも効果があったと思われる。逆に言えば,孫策死後の不安定な状況の中では江東の名家と繋がりを強くして,安定化を図らねばならない状況にあったとも考えられる。そのあたりが,赤壁で孫権が降服か抗戦かで部下の意見を必要以上に聞かなくてはならなかった原因かもしれない。
    • (注)長くなったので注を三国雑談「孫策は江東豪族を弾圧したのか?」にアップしました。
  • もちろん孫権も孫策同様,無名の人材の発掘も行っている。呂蒙などは孫策が見出したというより,実際には孫権が抜擢した感が強いし,闞沢のような貧しい家の者を抜擢したりもしている。孫策は文官に関してはひたすら北方からの参入者を頼っていたのに比べて,孫権は文官に関しても無名の人物の抜擢を行っている点は,孫権が孫策より人材登用の優れている一点として挙げて良いと思う。