【 魯粛暴走 】
  • 208年八月,荊州牧・劉表死す。孫権旗下の将の中で,最も早くこれに反応したのは魯粛である。魯粛は劉表の死への弔問という形で荊州に出向きたいと申し出る。本来,劉表と孫権は仇敵であり弔問なぞ必要ではない。もちろんこれは口実である。魯粛は劉琮と劉琦の反目をついて,劉備と共に荊州を併呑することを考えていた。孫権も魯粛の荊州出向を許可する。
  • しかし,荊州の情勢は魯粛の想像を超えて,一気に動き出す。夏口まで来たときには,曹操が予想以上の早さで荊州に攻め入ろうとしているという情報が入る。魯粛はこりゃいかんとばかりに強行して荊州に向かうが,南郡まで来た所で,劉表の後を継いだ劉琮があっという間に曹操に全面降服したという情報まで入ってきた。劉琮のあまりにもあっさりとした降参劇は魯粛の計算を大きく狂わせた。このままでは荊州どころではない。しかし今度は,劉備が襄陽から脱出して,長江を渡って南に行こうとしているという情報が入ってくる。これは朗報とばかりに魯粛は劉備の元に急ぐ。魯粛としては,荊州に残る反曹操勢力となんとしても協力関係を結んでおきたかった。
  • 魯粛は当陽の長坂で劉備と会見する。この時点で劉備にはまだ孫権を頼ろうという気はない。もし孫権を頼る気なら,始めから江陵(南下)ではなく,長江を東に向かったはずである。劉備伝の注の『江表伝』には,劉備は始め,交州に向かうつもりだと言っている。(ただしこの江表伝はいささか信憑性が疑われる書ではある。しかし呉関係の注は江表伝が多く困ったものである。)交州までは行かなくても,長江の南側に下ってそこで曹操を食いとめるくらいの計算はあっただろう。逆に魯粛や孔明の考えは,巨大な曹操に対して孫権と劉備がバラバラに戦ってはいけない,二人は協力して曹操に当たるべきという考えである。この考え方は三国鼎立の基礎となる考えではあるが,魯粛と劉備が会見した時点では,まだ魯粛・孔明らの独断の考えに過ぎない。孫権も劉備もいまだ同盟関係にはなかったのである。
  • そうこうしているうちに,曹操の猛追撃が劉備を捕らえ,長坂で劉備一行は曹操軍に徹底的に叩かれ,劉備は妻子を捨てて命からがら逃亡する。こうなるともはや魯粛・孔明の考えに従って,孫権と協力する道を模索するしか道はなかった。関羽の水軍と合流し,なんとか夏口にたどり着いた劉備は,孔明を使者として魯粛と共に孫権の元に行かせる。しかしこれは完全な魯粛の独断先行である。孫権は,劉備と同盟することにまだ同意していない。先に劉備を説得してから,次に君主である孫権を説得するというのは,筋道が違う。このため魯粛はこの後の柴桑会議で発言権をなくし,柴桑会議は紛糾を極めることになる。