【 荊州騒乱 】
- 激動の208年は,七月に曹操が大軍を率いて劉表討伐に赴いた事に端を発する。荊州刺史として赴任して以来,孫堅・張済らの侵入を撃破し,長らく荊州を支配してきた劉表であるが,この頃の劉表は傍観が過ぎ,機を逸していた感がある。官渡の戦いの時期は,孫策がそうしようとしたように,南方の群雄が天下を狙うチャンスだった。だが,劉表はこの戦いを傍観する。揚州にしても劉表がその気になれば,孫策死後の混乱期は劉表が揚州を支配する最大のチャンスだっただろう。だが,劉表は動かない。考えるに,劉表は荊州刺史として荊州の安全は謀略を用いて排除しようとはしている。幾度かの危機は見事に防いでおり,無能な人物ではない。だがそれ以上の野心があったかどうかが疑問になる。ただ,劉表があくまで中立を保ったのには,劉表は中原の動乱はもっと長く続くだろうという読みがあったことと,荊州南部の山越や桓階・張羨のような反乱勢力の問題もあっただろう。その辺の事情は揚州と良く似ている。要するに南に反乱勢力を抱え,中原に出る余裕はなかったとも考える事はできる。だが,事情はどうあれ,孫策が死に,唯一曹操を南から攻めることができた劉表が動かなかったため,曹操の中原制覇を助けてしまった感は免れない。
- 八月,その劉表が病死する。劉表は後継者に劉琮を指名して,長男の劉琦には江夏太守の任を与え,中央から追いやる。劉表在命中からすでに降服論に傾きつつあった劉琮陣営は,曹操が襄陽に来ると州を挙げて降服する。この降服論は,当時の儒教の考えに基づいて考えると極めて理論的であり,別に情けない話ではない。現に劉琮はただ降服したというだけで,立派な行為だという評価すらもらい,青州刺史になっている。下手に逆らって,民を苦しませた上に,一族惨殺の憂き目に会うより,よほど賢い選択なのである。
- ただし,これを良しとしないグループが存在していた。嫡子であったが冷遇されていた劉琦と,客として劉表に身を寄せ,打倒曹操に執念を燃やす劉備である。劉備は207年にも,曹操が烏丸攻撃に遠征した隙に,許都を襲撃すべきと進言している。実際これは成功率の高い作戦だっただろう。だが劉備は軍事行動を起すと,独立しては敗れてまた別のどこかに身を寄せるというパターンを延々と繰り返しており,劉表としても信用が置けず,この作戦は見送られている。その劉備であるが,劉琮は劉備に対して,曹操に降服したことも,曹操がどこまで来ているかも,一切知らせていなかったのである。これは劉備をいけにえとして差し出したも同然。劉備は曹操の目前に単身でさらされる格好となり,激怒する。が,既にどうする事もできず,自軍を率いて移動を始める。それを聞いた劉琮陣営では劉備は襄陽を攻める気かもしれないと戦々恐々だったが,劉備は反曹操の旗印を抱えたまま,襄陽を通過する。そこで反曹操の立場を取る荊州の士人(伊籍など)や民衆を従えて,さらに江陵方面に移動を始めた。
- さて,劉琮の降服により,戦う事無く襄陽城に入城した曹操である。劉琮だけでなく,益州の劉璋も,曹操への役夫(軍の提供)を行う方針を固めて,兵を提供しており,すでに曹操に歯向かう者は劉備のみという情勢であった。曹操はポイントを劉備一本に絞って,襄陽に入城するや否や,精鋭の騎兵隊を選び,劉備の猛追撃を開始する。対する劉備陣営は民衆を引き連れての移動であり,追い着かれるのは必死であった。かくして一つ目のポイントとなる長坂(当陽)で曹操・劉備・魯粛の三名の思惑が交差する。 ▲▼