【 二宮の変 】
  • 呉の皇太子問題,いわゆる二宮の変の発端は,241年に孫権の長男であり,皇太子であった孫登が死去したことに発する。この時点で次男の孫慮もすでに死亡しており,皇太子候補は,三男の孫和(そんか)・四男の孫覇(そんは)・五男の孫奮(そんふん)・六男の孫休(そんきゅう)の四人であった。ちなみにこの時点では七男の孫亮(そんりょう)は,ギリギリ生まれていない。242年,孫権は皇太子に孫和を選ぶ。
  • 普通,きちんとした国である場合,後継者は長子が相続するというのが基本である。孫策が弟の孫権を後継者に指名したような例は例外的な事であり,長子が能力的・性格的に問題があるか,相続にふさわしい年齢になっていない(なっていなくても,ほとんどの場合は長子が継ぐ。)場合のみ,長男でない庶子から後継者が選ばれる事がある。だから孫和が皇太子に選ばれたのはごく自然な事であり,孫策の頃のように,まだ国として確立していなかった時期ならいざ知らず,皇帝が立った勢力として他の選択肢はありえなかった。そして,庶子となった兄弟たちは,王に封じられる。これが普通である。
  • 当初,孫権は庶子を王に封じる事には消極的だった。庶子に土地を割いたら,それだけ国庫がきつくなるからである。これは当主として現実的な問題があったからだろう。しかしさすがに,庶子を王にすべきだという上奏が続いたので,四男の孫覇だけは魯王に封じた。
  • ここで,妙な事が起きてくる。皇太子と庶子では,その待遇に格差があるべきなのだが,孫和と孫覇の待遇がほとんどいっしょだったのである。魯王となった孫覇は宮廷を出て,赴任地で幕府を開くべきなのだが,孫和と孫覇は同じ宮廷に住んでいて,しかも待遇は同じと来た。ここでもしかしたら孫覇が皇太子になるかもしれないと考えた人たちがいる。238年に死去した歩夫人の娘,全公主(孫魯班)らである。
  • 歩夫人は嫉妬を知らぬ性格で,最も孫権の寵愛を受け,死後に皇后の位を贈られている。しかし歩夫人には男子は生まれなかったらしい。孫和が皇太子となると,孫権はその母である王夫人を皇后に直そうとする。魯班はこの王夫人に対して憎悪の炎を燃やす。おそらく魯班は死んだ母が,ただ男子が生まれなかったというだけで,皇后の位から降ろされようとしていることに,怒りと嫉妬を募らせたのだろう。魯班は孫権に王夫人の讒言を吹き込むと共に,皇太子の孫和に対抗して,孫覇を皇太子にしようと画策する。
  • 孫覇はその母が誰なのかはっきりしない。孫登も母は平民だったらしく,孫覇もまた,母親は平民だったのではないかと思われる。魯班はその孫覇に目を付けた。孫覇なら後ろ盾となる母とその外戚がおらず,自分が動かしやすいと考えのだろう。さらに不思議な事に,魯班の嫉妬と野望が呉全体に広がっていく。魯班は男だったら,行動力と策謀に優れた一代の人物だったかもしれない。孫堅の妻・呉夫人,孫権の妹・孫夫人など,とにかく呉の女性たちは良くも悪くも,行動力・求心力を持っている人が多いのである。
  • こうした情勢の中,孫覇もまた自分が皇太子になれるのではないかという野心を抱くようになる。この二宮の確執が,呉の有力豪族を巻き込んで,国を二分する騒ぎに発展する。
    • •孫和派・・・陸遜・顧譚顧承吾粲張休朱拠屈晃・諸葛恪・陳正陳象・勝胤・施績・丁密
    • •孫覇派・・・孫魯班・全琮・全寄楊竺・歩隲・呂岱・呂拠・孫弘・呉安孫奇
    全員を挙げる事は出来ないが,主要な人物を挙げるとこうなる。(赤字は二宮の変で,殺害されたり,罪に落とされた人物。)問題なのは,孫和派に陸家・顧家・張家などが,孫覇派に全家・歩家・呂家などが与している事である。
    • (注)陸遜流罪について。最近では「陸遜は流罪になってない」という考え方がネット上でも多く見かけるようになり、ネット上で広まったきっかけの当事者の一人としては、非常にうれしく思います。事の発端については、「三国志サポート掲示板」の「陸遜の流罪について」のツリーを参照。結論から言うと「二宮の変において、陸遜が流罪になったというのは筑摩の誤訳」です。
  • この二宮の変のとらえ方は色々あるが,ここでは,呉の主流派の豪族と亜流派の豪族たちの主導権争いと考える。陸遜は244年に顧雍の後を継いで丞相になっているし,顧譚・顧承も前丞相・顧雍の一族であり,いわば主流派である。対して,歩隲・全琮などは要職にはあるものの,陸家・顧家には一歩先んじられている。この主流派と亜流派の主導権争いは当初,亜流派が勝利する。陸遜は孫権の詰問を受け憤死,顧譚・顧承・張休らは流罪となる。こうして246年に行われた人事更新では,
    • 丞相    歩隲
    • 左大司馬  朱然    右大司馬  全琮
    • 上大将軍  呂岱    大将軍   諸葛恪
    となっており,諸葛恪を除いて,ほとんどの要職に孫覇派の人物が就いているのである。しかし翌年の247年に,孫覇派の両巨頭である歩隲・全琮が相次いで死去した事で,一時,孫覇派に傾いた形勢は五分となり,二宮の変は混迷を極める。その間,孫権はこれといった対策を示さず,事態を傍観してしまった。
  • やっと,この争いに一応の決着がついたのは,事件勃発から約十年後の250年の事である。事此処に至って,もはや亀裂は修復不可能と悟った孫権は,孫和を庶子に落とし,孫覇に自殺を命じるという,喧嘩両成敗とでも言うべき決着方法を用いるのである。これは一見,公平なようだが,孫和は普通に皇太子として在るべき事をやっていただけであり,孫覇が誅されるのは当然として,孫和は良い迷惑である。孫権も後にその事に気付き,孫和を皇太子に戻そうとするが,そうなると困るのは孫覇派に与した孫魯班・孫弘らである。結局これらの反対により,孫権はまだ10才に満たない,孫亮を皇太子に据える。すでにこの頃,魯班らは,孫亮を押し立てる事に,方針を転換しており,この事が孫権死後も致命的な問題をはらんだまま呉の命運を左右していくことになる。
    • (注)二宮の変については、いつかまとまった考察をしたいと考えているが、今でもコレ・・と言った確証的な答えが見つからない。二宮の変の考察の方向性として、孫権が二宮の変を政治利用した(主流派豪族の追い落とし・皇帝権力の強化)という考え方と、派閥抗争に巻き込まれた(後宮の争い・後継者争い・主流派亜流派豪族の争い)という考え方がある。もう一つの謎が「なぜ孫権はこの件を放置したのか?」という点である。これも結局「放置することで政治的利用価値を見出した」「派閥抗争を沈静化できなかった」「そもそも大した問題だと考えてなかった」等の考察の方向性を分類できる。
      で、今の所の漠然とした私のイメージでは、「孫権に二宮の変を政治利用しようという意図は感じない」ということ、もう一つは「孫権の当事者意識の低さ」である。に対して、韋昭呉書の形成に影響があると思われる孫晧にとっては「非常に重要な事件」であるということ。そして陳寿にとっては「二宮の変をオミットする必要性はほとんどゼロ」であるということ。
      史書において権力抗争は、勝利者の都合によってオミットされているケースと、敗者の失策として赤裸々に暴露されるケースがある。魏においても曹丕・曹植の後継者争いは存在している。司馬懿と曹爽の権力争いもそう。呉に限ったことでは実はない。二宮の変は、様々な条件が重なり、歴史的には勝者と言ってよいはずの孫権の失策が、完全に詳細を暴露されているケースである。二宮の変の考察は、今後、三国雑談で企画したいと考えています。