【 合肥と濡須 】
- 赤壁の戦いの後,孫権は劉備の上奏により,車騎将軍(しゃきしょうぐん)兼,徐州刺史となる。また,劉備は荊州刺史に劉琦を上奏するが,劉琦の死去に伴い,自らが荊州牧となる。しかし,この上奏というのはどうもうさんくさい。献帝に上奏したとしても,曹操がこんな勝手を許可するはずがない。おそらくこれは孫権と劉備の間での取り決めだろう。これを見て分かるのは,周瑜死後,魯粛の主導の元で,劉備との協調路線・天下三分の策が動き出していたという事である。また,孫権と劉備は互いの親交を深めるために,孫権の妹を劉備が娶る。孫権の妹は,孫権よりも父孫堅・兄孫策の血を濃く受け継いでいたようで,相当のジャジャ馬だったらしい。法正伝に『孫夫人は才気と剛勇において,兄たちの面影があった。』とあり,しかも,孫夫人の側仕えの女たちは皆,刀を持ったまま仕事をしており,劉備はビクビクしながら自分の奥さんに会いに行ったらしい。憐れなり劉備^^;。しかしこれでは親交を深めるには逆効果のような気がする^^;?蜀を騙し取られた腹いせに,困り者の妹を劉備に押し付けたのかも^^;?
- さて,呉と蜀が天下三分の策で一致したために,孫権は中原進出の糸口を掴むため,合肥・徐州方面に軍を進める事になる。特に合肥をめぐる魏と呉の争いは熾烈を極める。合肥という場所を見てみると,南に巣湖を持ち,巣湖からは長江に向けて比較的大きな川が流れている。つまり長江から北に突き出した長江流域という特徴を持っている。呉は長江流域を抑える事は防衛上も大切な事だったため,孫権は執拗なまでに合肥を抑える事に精力を注いだ。魏側でも合肥の重要性を把握しており,劉馥が補修して以来,合肥城には,張遼・楽進・李典という歴戦の名将たちが駐留する事になった。対する孫権側の防御拠点は合肥城を川沿いに長江に下った濡須となる。孫権は濡須に砦を築き,そこに蒋欽・周泰といった信用の置ける歴戦の武将を置いて対抗していた。
- それに加え,赤壁の戦いの後,長江北岸に住む住民たちへの強制移住騒ぎというのが起きる。曹操は長江北岸の郡を孫権に奪われるのを懸念して,そこに住む住民たちを北方に移住させようとする。だが,この策はヤブヘビとなった。長江流域に住む住民にとって,北方は気候も環境も違う異世界であり,北方に移住させられるくらいなら,長江を渡って呉に移住した方が良いという事で,江東に大挙住民が移住したのである。その数は魏書・呉書共に十数万人とあり,長江の北岸の地域は,無人に近い状態になる。そのため曹操は長江北岸の地域に屯田兵を置いて,孫権の進入に対抗した。この屯田兵方式だと,軍の駐屯地域に住民が住んでいなくても,軍を維持する事ができる。張遼らが率いていたのも,こういう屯田兵だったと思われる。また呉の側でも長江北岸に屯田兵を置こうとしており,こうした屯田兵同士の小競り合いは延々と続いたようである。それに加え,合肥と濡須という近すぎる防衛拠点の存在が魏・呉の激突に拍車をかけた。212年から断続的に行われた合肥・濡須をめぐる激戦にはこうした背景が存在していた。
- 212年は,秣陵にあった石頭城を改装して,この土地を建業を改め,呉の首都とした年でもある。それまでの本拠であった呉・会稽は長江から遠く,より長江流域の支配を強めるには,位置的に建業は首都として最適だったのだろう。この建業遷都はこの年に死んだ張紘の進言でもあった。 ▲▼