【 荊州争奪戦 】
- 孫権の全盛時代はおそらく210年代後半の荊州争奪戦の頃から,230年代の皇帝を名乗るまでの期間である。孫権の全盛時代は対外戦争の勝率が格段にアップする。それはなぜかというと,孫権は決して無理はせず,三国鼎立という状況を利用して,常に2対1という状況を作り,有利な立場に立ったからだ。魏と蜀がその建国の理念から、決して相容れる事がなく,対立しかなかったのに比べ,孫権はその立場を自由に考え,国力を充実させた。このあたりが陳寿をして,『孫権は,身を低くして,恥を忍び,越王・句践(こうせん)と同様の才あり・・・』と評価する部分である。ただし孫権は夫差や句践の臥薪嘗胆(薪の上に寝て,肝を舐めて試練を耐える)というような健気さは持っていない。恥を忍びというより,恥を恥と考えないというのが正しかろう。発想の転換である。恥も見方を変えれば,戦略なのだ。さらに見方を変えれば節操がないとも言える。要は孫権の評価も見方次第なのである。
- さて,最初の呉・蜀の荊州をめぐる争いは215年に起きる。それ以前の荊州の情勢は漢水と長江を境にして,漢水以北を曹操,漢水と長江の間を孫権,長江以南を劉備が支配というもので,まさに三国鼎立の縮図が荊州に現れていた。しかし,この配置で一番得をしているのは劉備であろう。曹操と接する事無く,同盟国の孫権が曹操との紛争を引きうけ,南部に位置する劉備はさほど戦乱を気にする必要もなく,租税が取れる。こうして見ると孫権が劉備に荊州を貸し与えたというのも分かる気がする。実際,劉備も生命の危機を感じながらも,やむにやまれず京城にまで出かけて,荊州南部の優先占領権を願い出ているのだから,孫権の言い分も分かる。しかし実際に南部四郡を切り取ったのは劉備であり,貸してもらったという気持ちが劉備側に薄い事も分かるのである。
- (注)この辺りの記述には、かなーり言いたいことがあるのだが、詳しくは魯粛伝で。簡単に言うと「劉備からすると、荊州を貸したなんてのは、ただの呉の言いがかり」です。下記の魯粛の立ち回りも全然、意味合いが違う。魯粛は、劉備がもっと簡単に強硬外交に応じると思っていたら、結構、状況が抜き差しならなくなったので、必死になって「時間稼ぎ」をしている。「両者共倒れ」にならないうちに、なんとか予定通り、話し合いで荊州諸郡を切り取ろうとしているだけ。
- 孫権は劉備が成都を制圧し,益州牧となった事から,諸葛瑾を使者に立てて,荊州の諸郡を返してほしいと求める。が,それに対する劉備の答えは『涼州を手に入れたら,荊州を返しましょう。』という物であった。涼州がそう簡単に制圧できる保証はどこにもないし,さらに言えば,劉備に涼州を攻める気があるのかどうかが分からない。これは孫権を馬鹿にした反応だろう。劉備には呉は合肥・濡須で曹操と激突しており,荊州に手は回らないはずという計算があったのかもしれない。また,強行策に出ても,益州の時と同じように,結局孫権は泣き寝入りをすると思っていたのだろうか?しかし孫権は若く,今まさに成長過程にあり,いつまでも赤壁後,劉備にしてやられた孫権ではなかった。
- 孫権は呂蒙を指揮官として,凌統・呂岱・鮮于丹(せんうたん)・徐忠(じょちゅう)・孫規(そんき)らを率いらせて,長沙・零陵・桂陽の三郡を攻め取らせる。呂蒙は電撃作戦でもって,長沙・桂陽の二郡を落とし,残る零陵の郝普(かくふ)も計略で降服させる。一方,変事を聞きつけた劉備も公安まで軍を進め,関羽を益陽に向かわせる。それに対して孫権は自らは陸口で軍の総指揮を取りつつ,魯粛・甘寧を益陽へと向かわせる。ここで関羽対甘寧という,両軍の猛将同士の対決が起きるが,甘寧が関羽の渡河を阻止,直接対決はなかったが,一歩甘寧が先手を取る。関羽と魯粛は河を挟んで対峙する。それに三郡を制圧した呂蒙も孫皎・潘璋らと共に戻ってきて,益陽で両軍激突寸前となる。
- しかし,ここで呉と蜀が対立する事を懸念していた人物がいる。他ならぬ魯粛である。荊州をめぐって呉と蜀が対立するのは,曹操の思うつぼであり,それは絶対にいかんと考えた魯粛は,関羽と会談を設け,なんとか話し合いでの解決の道を探る。どうもこの会談も魯粛の独断っぽい感じがするのである。孫権は陸口まで軍を進めている以上,魯粛には関羽と対峙するように指示を出したはずである。和睦を命じたのではあるまい。しかし丁度その頃,曹操が漢中に進入,張魯が降服した事から,蜀方面の戦線が騒がしくなってきた。そのため劉備も孫権に和睦を申し込む。結局,魯粛が関羽との戦端を開かなかった事で,両国の話し合いによる荊州分割という,ギリギリのラインでの和睦が成立する。この時の和睦には魯粛の奮戦が大きいだろう。関羽は武人であり,対峙した以上,和睦を自分から申し入れるつもりはなかったと思われる。魯粛が呉と蜀の間に立ち,接着剤としての役割を果たした事は大変大きかった。
- 荊州は,湘水を境に東西に分割して,江夏・長沙・桂陽を呉,南郡・零陵・武陵を蜀が支配という形で一応の決着がつく。だが,荊州の軍権を任された関羽はこの時の出来事を忘れるはずもなく,呂蒙もまた,関羽討伐の意思を持っていた。この荊州東西分割は,魯粛が両国の激突を回避すべく,努力した結果の産物である。荊州をめぐる争いは,魯粛という蓋がなくなった時,再び再発する事になる。 ▲▼