【 三方面侵攻作戦 】
- 夷陵の戦いで劉備軍を徹底的に打ち破った孫権だが,孫権はそれ以上軍を進ませず荊州に軍を戻した。時期的には222年の七月頃である。その頃すでに孫権は魏の不穏な動きを読んでいた。そのため,今度は敗北した劉備と和睦して,魏の進入に備える。
- 元々,孫権は魏に臣従したとはいえ,それが恒久的なものではない事は明らかである。曹丕は太子の孫登を人質として許都に送るように指示していたが,孫権はなんやかやと言って孫登を許都に行かせるのを拒否する。曹丕はそれを口実に孫権討伐の軍を起す。222年の九月の事である。曹丕のこの時の行軍で不思議なのは,どうして呉と蜀が争っている間に,どちらかに絞って軍を進めなかったのか?という事である。呉と蜀が夷陵で対峙している222年春頃に進軍すれば,呉であれ蜀であれかなりきつかったはずだ。曹丕は劉備の布陣を笑う暇があったら自分がその間に軍を進めるべきだった。
- 曹丕は,曹休・張遼・臧覇らを洞口(どうこう。濡須の東に当たる。)に,曹仁を濡須に,曹真・夏侯尚・張郃・徐晃を南郡に進ませた。これに対して孫権は,臣従を申し込む手紙を曹丕に送り時間稼ぎをする一方で,呂範・全琮・徐盛・孫韶らを洞口に,朱桓を濡須に,諸葛瑾・潘璋・楊粲らを南郡の救援に向かわせる。
- この三箇所での激突で,一番やばかったのが洞口にいった呂範軍であった。222年の十一月,呂範軍は洞口で曹休軍と対峙したが,突風により軍の大半を失ったというのである。魏書ではこれを曹休が呂範を破ったとしており,いずれにしても呂範軍の攻撃は失敗した。さらに呉軍の守備軍を率いていた部将の晋宗(しんそう)が,同じ駐屯地にいた部将の王直(おうちょく)を殺して魏に寝返るという事件も起き,苦戦となる。しかしその後,臧覇軍の突撃を全琮が撃退,賀斉・徐盛らの活躍で何とか曹休軍を退却させる。晋宗の反乱も賀斉・糜芳らによって撃退された。その間にも孫権は蜀との国交の回復に努め,鄭泉(ていせん)を使者に立てて蜀との友好関係を回復する。しかし,総じて呉の使者というのは優秀である。この時の劉備との友好関係の回復はどう考えても決裂が必死だったように思える。よく劉備がこれを受け入れたものだ。孫権の魏と蜀を手玉にとった外交戦略を支えたのはこういった外交官の能力抜きには語れない。
- 年が明けて,223年になっても曹丕軍との対峙は続く。南郡に攻め入った曹真軍は,張郃が孫盛軍を破って江陵の中州を占領,一時朱然は孤立無援となり,部下の内応騒ぎまで起きるが,朱然は死力を振り絞って江陵城を死守,対峙する事六ヶ月でついに曹真軍も江陵城攻略を諦める。濡須に向かった曹仁軍と朱桓軍の対決では,始め朱桓は歴戦の曹仁の罠にはまるが,朱桓はそれを逆用して油断を誘い,部下の厳圭(げんけい)を派遣して常彫(じょうちょう)を斬り,王双を捕らえるという大戦果を挙げる。こうして曹丕の三方面からの進入計画は全て頓挫した。
- 夷陵とそれに続く魏の三方面攻撃戦では,劉備・呂範・曹仁といった,これまでの歴戦の武将が失敗して,陸遜・朱桓・朱然といった次代を背負う人材が成功するという現象が起きている。これは孫権陣営では周瑜・魯粛・呂蒙といった優秀な司令官が相次いで死去したために,若い人材を使わざるを得なかった点はある。が,そうした人材の適材適所への起用で孫権が見事な手腕を発揮したことも注目しなくてはならないだろう。それに対して魏側では次代を背負う人材であるばすの曹休・曹真が敗北し,蜀側に至っては数多くの次代を背負う武将を夷陵で失った。この夷陵前後の孫権は実に見事である。外面にこだわらず,変幻自在な外交戦略に,見事な状況の把握,人材の適所活用とまさに孫権の全盛時代と言って良い。
- その後孫権は,劉備亡き後政権の中心立った孔明との協調路線を強め,以後215年~222年の間に行った魏・蜀間を外交戦略で乗り切るという方針は影を潜める。曹丕はこの敗戦に懲りず,その後の毎年のように呉に侵攻してくるが,正直言って,曹丕は孫権には及ばなかったと言える。曹丕の対呉侵攻は全て徒労に終わるのである。 ▲▼