【 孫権外伝 】
  • ここでは,今まで挙げていない孫権の逸話を書いていきたい。
  • 1.孫権,虎を倒す^^;。

    218年,孫権は呉郡に向かう途中で,狩りをする。そこで孫権は虎と出くわす。虎は孫権の馬を傷つけるが,孫権が双戟を打ち込んで,虎が後ずさりした所を,従者の張世(ちょうせい)が矛を打ち込んで虎を倒した。張昭は『賢者を用いる名君というのは聞いたことがあるが,野原を駆け回って虎と戦う名君というのは聞いたことがない(`-´)。』と激怒モードに入ったが,孫権は何処吹く風^^;。その後は『危険じゃなきゃいいんでしょー。』とばかりに虎退治用の車を作って,窓から虎を射るのである^^;。
  • 2.孫権,自分の事を棚に上げる^^;。

    221年,孫権は部将たちに命令を出して『どんな時にも危機に対する配慮をしなくてはいけない。最近は外出の際に,従者を従えないものがいるということだが,危険に備えて我が身を大切にするという観点から見ても,とんでもない事だ。』という。これを受け取った部将たちは,みな心の中で思ったに違いない。(だったら,虎狩りはやめて・・・^^;)
  • 3.孫権,魏と交易をする。

    235年,魏は孫権に,馬と真珠・翡翠などを交換したいと申し入れてくる。孫権は『真珠や翡翠は,確かに貴重な珍品だけどワシには必要のないものだ。その代わりに馬が手に入るなら,拒否する必要もない。』と,交易を受け入れた。
  • 4.孫権,大銭を作る。

    孫権の経済政策である。236年,孫権は一枚が五百銭に当たるという大銭を作った。要するに10万円札のようなものである。しかしこの経済政策は当たらなかった。返って,大銭は不便と感じている者の方が多く,246年には使用禁止になっている。
  • 5.孫権,職務規定を定める。

    237年に,当時の士人たちの思考を知るためにも重要な建議が行われている。当時,儒の思想に従うと親が死んだ場合,3年の喪に服するのが規定であった。しかし,三国時代のように,争乱の時代に国家の中核にある人物が3年も喪に服するのは,現実的に問題があった。そこで,孫権と顧譚・胡綜・顧雍らの間で面白い建議がなされている。孫権は必ず交代者を待ってから葬儀に駆けつけるべきだと言い,顧譚は親が死んだ事を伝えなければ,親への孝を失うことなく,職務放棄もなくなるだろうと言い,胡綜は国家への忠と家への孝は両立できるものではないから,もし職務放棄して葬儀に出れば死刑という規定を設ければよいと言う。結局,顧雍が意見をまとめて職務放棄をして葬儀に出れば,死刑という規定を設けた。しかし,県令の孟宗(もうそう)という者が職務を放棄して葬儀に駆けつけた。孟宗は自ら名乗り出て,いかなる罪でも受けると申し出る。これに対して陸遜が彼の命乞いをしたために,孟宗は例外として罪を軽減された。儒の思想と現実の間で,いかに職務を遂行するかという事は,現代の私たちには想像できないほど重要な事だったのである。
  • 6.孫権,人材登用の規定を定める。

    239年,孫権は中郎将を選ぶに当たって,四つの科目の試験を通過した者を採用すると通達を出した。逆に言えば,それまでは官僚を選ぶに当たって,風評という,ハクでのみ人材の登用が行われていたという事である。
  • 7.孫権,民を救済する。

    民衆にとって,一番恐ろしいのは自然災害である。孫権は飢饉や洪水・疫病といった災害が起こると,税金を免除したり,国庫を開いて被災者を救済したりしている。250年には,大洪水で租税を払えない者も出たのであるが,孫権はそれらの租税を免除して種や食料を貸し与えた。240年には農繁期の労役(労働などで代用される税の事)を禁止している。
  • 8.孫権,賄賂を禁止する。

    皇帝孫権の元には,各地から珍品・名品が届けられた。孫権は,末期には後継者問題や呂壱問題などいくつかの失策はしたが,自らの物品欲は最後まで無かったようで,こうした過分な献上物を持ってくる事を禁止している。また,孫権は宮中の食事を簡素なものにするように命令を下した。
  • 9.孫権,蜀を信用する。

    244年,歩隲・朱然らは蜀が積極的な魏への行軍を行わないことから,蜀は呉との同盟を破棄して攻め込もうとしているのではないかと進言する。しかし,孫権は呉も蜀も国力を考えれば,それはあり得ないとして,孫権は蜀の寝返りへの対応はしなかった。はたして孫権の言うとおり,蜀にはそういった企てはなかったのである。
  • 10.孫権,罪が妻子にまで及ばないようにする。

    当時,守備軍の部将が逃亡した場合,その妻子も殺すのが規定だったが,孫権は妻子に連座の罪を負わせるのを禁止した。情意的な意味もあるだろうが,それよりむしろ,逃亡した部将の子供まで失脚させることによる戦力の低下を懸念した策と思われる。
  • 11.孫権,運河を作る。

    これも孫権の経済政策。孫権は屯田兵と工作員3万で,句容中道(長江の下流)に運河を掘って,商人たちの交易場を設置した。
  • 12.孫権,リサイクルをする^^;。

    建業の宮廷(太初宮)は,孫権が京城から移った時に建てた将軍府の役所を改装しただけの物で,247年の頃には老朽化が激しかった。なんと一国の宮廷が倒壊の危険すらあったと言うのである^^;。そこで改築をすることになったのだが,孫権は『武昌宮(荊州に立てた宮廷。孫権はここに首都を置いていた時期がある。)から木材を持ってくればいい。』と言う。役人たちはせめて一国の宮殿なんだから,国内から木を集めて大規模な改装をするべきだと進言するが,孫権は『そんなことをしたら,賦役を民に強制する事になって,農政の妨げになる。リサイクルすればそれで十分に用は足せるのだから,それで十分だ。』と言って,最後まで民を賦役に課するのを許さず,太初宮の改築は,諸将や州・郡の長官たちと作業員のみで行った。
  • 13.孫権と透明人間

    三国時代の人物の中でも,トップクラスのいかがわしい人物,それが透明人間・王表(おうひょう)である^^;。臨海郡(会稽郡)には,神様が住んでいた。ほんでもって,その神様は王表と名乗り,言葉を発して,飲み食いはするのだが,姿が見えない^^;。あやしいのは,この神様に仕えていた紡績(ぼうせき,しかしこれ糸を紡ぐと言う意味そのままですね^^;)という巫女である。私の想像だが,彼女が腹話術を使って王表なる神様を演出したのではないだろうか?孫権に呼び出された王表は,日照りや水害などの予言を的中されるなどしたが,孫権が病に倒れると,官僚たちが王表に孫権のために福を請うた(おそらく,病気を治してくれと言うことだろう。)ところ,王表はトンズラした。
  • 14.孫権と蜀の使者との友情

    蜀に呉の使者として活躍した宗預(そうよ)という人物がいる。彼は孫権と年も近く,孫権と宗預は大変気が合ったらしい。孫権は年を取って,宗預が呉に来た時に『君はいつも,呉と蜀の友好関係を取り結んできた。今,君は高齢で,私も老衰の身だ。たぶんもう二度と会うことはないだろう。』と言って,宗預の手を握って泣いた。孫権は配下の心を掴むために意図的に泣いたりする事はあるが,これは利害関係はなく,おそらく本心からの涙だろう。息子たちの後継者争いに疲れ,信頼できる人物を見失った孫権の心の悲しみとも思えるのである。
  • ここに挙げられなかった,孫権の逸話はまだまだある。なにせ三国時代でもトップクラスの重要人物である孫権の名前は,正史の至る所に出てくるので,すべて把握しきれないのである^^;。しかし,こうして見ると,孫権の民政・行政の手腕はさすがです。透明人間を信用したりする失策??もありますが,これは孫権の未知の物への興味と言うことで許しましょう^^;。やはり一代の巨人ですね。