【 飽くなきフロンティア精神 】
- 公孫淵事件の前に,夷州と亶州の探索について書きたい。230年,孫権は衛温(えいおん)と諸葛直(しょかつちょく,諸葛瑾の一族とはまた別の諸葛一族らしい。)に命じて,兵一万を連れて夷州と亶州の探索を行わせる。夷州というのは今の台湾にあたる。亶州については史記・始皇帝本記に見られ,九州の種子島の事ではないかという説がある。始皇帝は医師の徐福を蓬莱(富士山の事らしい。)に遣わして,仙薬を求めた。その徐福が留まったというのが亶州である。三国時代なると,その亶州の住民が会稽郡にやって来て商いをしたり,会稽郡東部に住む者が漂流して亶州に流れ着く事があったらしい。
- 当然,孫権の夷州・亶州探索には反対意見が出た。孫権は夷州・亶州探索の是非を家臣に問うたのだが,全琮は『亶州は遙か彼方にあり,こうした未統治地帯に行くと必ず疫病が発生して,結局益と害を比べると害の方が多くなる可能性が圧倒的に高い。防備を減らしてまで行う必要はないのではないか?』と,述べている。全琮の意見は至極最もであり,常識的に考えれば孫権の行動は支離滅裂であろう。ただ,孫権はこういったロマンというか,フロンティア精神が強く,まだ見ぬ土地に弱い^^;。また魏との国力差を考えた場合,万が一の可能性でも,一発大逆転の可能性を求めたとも考えられる。兵一万と探索成功の可能性を計りにかけて,どっちが重いだろうか?現実主義者なら兵一万,冒険者なら探索成功にかけるだろう。孫権は明らかに後者である。
- 結局,夷州・亶州の探索は全琮の危惧通りの結果となり,成果は夷州から連れ帰った数千人の住民のみ,しかも連れて行った兵一万は疫病にかかり,結局損害の方がでかくなってしまった。かわいそうなのは衛温と諸葛直である。二人は勅に背いたとして誅殺されてしまう。
- だいたいこの亶州の探索と,その後に続く遼東情勢への介入は孫権の失策と言うことで定着していると思われるが,その二つの方針の根本には,孫権の天下に対するとらえ方が背景に見える。前にも述べたように,孫権は天下を中原を中心とする漢民族の支配地域のみと考えていない。孫権の思考には中華の外の未開の地域が含まれている。通常の思考では,強大な魏に対抗するには,軍事的成功を収め,その勢力を削いで自領を増やすしかない。そのため,孔明は無謀とも言える北伐を生命をかけて遂行した。しかし孫権の思考からすると,魏と正面からぶつかるより,中華の外に目を向けて,魏の支配の及ばない地域を呉が支配していくか,中華の外の勢力と協調していけば,魏に対抗できるという考えが出てくるのである。だから孫権は山越を徹底的に叩き支配を強め,南下政策によりベトナムにまで進出した。亶州探索と遼東情勢への介入は失策には違いないものの,方針としては実に孫権らしいと思えるのである。 ▲▼