【 孫権の交州支配 】
- 赤壁後,合肥・徐州への侵攻は失敗,荊州での戦果は南郡のみ,巴蜀を狙うも劉備にしてやられて,周瑜は死去と,さんざんだった孫権だが,意外な方面に戦果があった。交州である。
- 交州には士燮(ししょう)が勢力を築いていた。士燮は元士燮は孫権に従うのが交州の安全のために一番良いと判断,孫権の支配を受け入れたのである。来は曹操派と言って良い。しかし赤壁の戦いの後,孫権は歩隲を交州刺史として派遣。士燮は息子の士廞を人質として送ってきた。孫権は士燮を交趾(こうし)太守に任命して信任する。さらに士燮は益州南部の豪族・雍闓に働きかけ,呉に味方させる事に成功する。もちろん,益州南部はあまりにも遠すぎるし,交州と違い,実際に孫権が支配したというわけではない。が,少なくとも劉備に属さず,呉に貢物を送って来させたのは,士燮の力によるものである。このあたり士燮は,益州・南蛮の異民族や遠い益州の豪族たちとの交州南部からの交易ルートを持っていたのではないかと思われる。巴蜀については劉備にしてやられた孫権だが,南部の支配権では完全に孫権が先手を取った。
- このあたり,孫権と劉備の天下の意識の違いが見られる。劉備はあくまでも荊州・巴蜀を基盤として,中原に出る事を優先している。劉備にとっての天下は北にある。だから益州南部の支配にはあまり積極的ではない。蜀が益州南部の支配を強めるのは劉備死後の話である。しかし,孫権はもう少し天下の領域を広く考えている。そのため南方への進出に積極的であった。このあたりが孫一門は,世界の中心は中国(中原)であるという中華思想から逸脱したアウトロー軍団であり,フロンティア精神を持った一族という評価を得ている部分である。
- さて,孫権の交州支配は,士燮存命中は士一族との協調路線が続く。が,226年に士燮が死去すると,士燮の息子・士徽(しき)は孫権に反乱し,独立して交趾太守を名乗る。新しく交州刺史となった,呂岱(りょたい)は,士一族の反乱を制圧し,士一族を介さない交州の完全支配を確立する。さらに呂岱は軍を南に進め,九真(きゅうしん)まで支配。さらに南方に役人を派遣して,扶南(ふなん)・林邑(りんゆう)・堂明(どうめい)の異民族の王に交渉を持ち,呉に貢物を送らせるのに成功する。このあたりは今のベトナムであり,孫権の南下政策は遥か南にまで及んでいた。普通,中国圏の版図の拡大というのは,中国を統一した強力な力を持つ王朝が行うものであり,三国時代のように,国内が分裂している場合,とりあえず統一を優先する。しかし呉はむしろ外に向かって勢力を広めており,このあたりが魏・蜀と性質が異なる部分である。
- さて,孫権が南方で手に入れたのは土地だけでなく,中原にはない,珍しい真珠や宝石・中原にはいない動物などなどがある。孫権はこれらの珍品を魏への贈り物として有効活用した。中原の人々にとってこうした品物は大変貴重だったのである。まあそういった珍品ほしさに,曹丕は孫権の反逆→藩国の礼→また反乱という,人を馬鹿にした外交を許したというわけではないだろうが^^;。贈り物として有効だったのは間違えなさげである。曹沖(そうちゅう)伝には孫権が象を曹操に贈った事が書かれている。見たこともない巨大な生物を目の当たりにした中原の人々の驚きはすごかっただろう。もちろんこれは贈り物としても貴重だったが,孫権の『呉は象が産出する地域にまで支配を広めているんだぜ。』という威圧でもあっただろう。
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