【 魏呉激突(前半) 】
  • 212年から魏・呉が長江を挟んで戦った回数というのは実に多い。魏書と呉書から軍の対立があったとされる年を挙げて見ると,
    • 209年・・・曹操合肥に陣を敷く。
    • 212年冬~213年・・・曹操が濡須を攻める。
    • 214年・・・孫権,皖城を攻撃。
    • 215年・・・孫権,合肥を攻撃。
    • 216年~217年・・・曹操,濡須を攻撃。
    実に212年~217年にかけて,ほぼ毎年戦端が開かれている。217年からは魏と呉の関係が修復されるので,また外交の方向が変わってくるのだが。ここでは209年と212年の激突について書いていきます。
  • まず,209年の曹操の進軍だが,これは赤壁直後であり,本気で呉を攻めようというものではなかろう。むしろ合肥に陣を敷いて,軍を鼓舞した感がある。しかも長江北岸の住民の移住騒ぎが起きたのもたぶんこの頃で,曹操は長江北岸に屯田を敷いて退却している。
  • 次に212年の冬から213年の春に行われた行軍。魏書には孫権の長江西岸の陣を破って,孫権軍の都尉の公孫陽(こうそんよう)を捕虜として退却したとある。呉書の方には,曹操が濡須を攻めたが,対峙して1ヶ月で孫権軍に乱れがないので退却したとある。おそらく,両軍五分で膠着したので,魏軍は部将の一人の公孫陽を捕らえたのを機会にして引いたのであろう。
  • この時の孫権の敵陣視察の様子が注に載っている。曹操は夜陰に乗じて中州に上陸したが,孫権軍の攻撃に合う。曹操は孫権がいくら挑発しても乗ってこない。そこで孫権は自ら小船に乗って敵陣に乗り込んで悠々と楽隊に音楽を鳴らせて帰って行った。
  • また,曹操は孫権軍の陣容を見て,『息子を持つなら孫権みたいなのがいい。劉表の息子たちなぞ,孫権に比べれば豚か犬のようなものだ。』と言う。しかし,それを言ったら曹丕の立場がないような気がするのだが^^;。
  • さらに,孫権が曹操にあてた手紙が載っている。『春になると洪水が起きるから,そろそろ退却するのがと良いと思いますよ。PS・・・貴方が死なないと私は安心できません。』これを見た曹操は,『孫権は私に嘘は言わない』と言って軍を返した,とある。多少,孫権を持ち上げる話が多いのは,これらが『呉歴』からの引用だからだろう。多少差し引いて考えなくてはならないが,曹操が孫権を評価したのは事実だろう。
  • さらに『魏略』に別の話が載っている。これは信憑性が高いだろう。孫権は船に乗って敵情視察に出るが,曹操軍がやたらめっぽう矢を射たため,船の片方だけが重くなって転覆しそうになった。そこで孫権は考えた挙句,船を180度回頭させて,もう片方にもしっかりと矢を浴びて,船のバランスを取ってから引き上げた。なんとも孫権っぽいエピソードです^^;。やられてもただでは起きあがらないというか,こすいというか,大胆というか・・・^^;。ちなみにこれらは演義では孔明が曹操軍から矢を得るエピソードに変わっています。