【 非凡なる相 】
  • 孫権。字は仲謀(ちゅうぼう)。呉の初代皇帝である。孫権が生まれたのは182年。黄巾の乱勃発の2年前で,孫堅が下邳県の丞をやっていた時である。孫権は顎が張っていて口が大きく瞳にはキラキラした光があったという。孫堅はそうした風貌を喜んで高貴な位に昇る相だと考えたという。
  • ちなみに良く言われる碧眼に紫のひげと言うのはどこから出た話なんだろうか?紫のひげというのは,孫権が合肥の戦いで張遼に奇襲を受けた時に,『さっきの紫髯(あかひげと振り仮名が振ってあります。脱色したような感じだったのでしようか?特に珍しそうな書き方ではないので,結構この手の髯の持ち主はいたのかも知れません。)で,背が高くて足が短く,馬が達者で弓のうまい者がいたがあれは誰だ?』と,張遼が捕まえた呉の捕虜に聞いたという記述があり,そこから来た話かもしれない。碧眼というのは,私が見た限りどこにも記述がないような??もしかしたら意外な所にあるのかもしれない。なにせ孫権関係の記述はやたらありますので全てを把握するのは大変なのです^^;。しかし背が高くて短足で,でかい口となると今の基準ではカッコ悪いですね。まあ安定感はありそうですが^^;。
  • いずれにしても孫権は人並み外れた風貌をしていた。この人並みはずれた風貌というのは,この時代結構重要だったのかもしれない。劉備も身長7尺5寸,(180センチ弱。この頃なら大男でしょう。)手を下げると膝まで届き,振りかえると自分の耳を見ることができたという『貴方,人間ですか??』という風貌である。袁紹も立派な風貌の持ち主だったようですし,曹操のように小男で特徴がないのに英雄足り得たのは珍しい例でしょう。孫家の人間はその点ではかなり風貌の面で得をしていたのかもしれません。
  • さて孫権が生まれたのは富春の実家だと思われる。が,孫権は,父孫堅が黄巾討伐参加すると同時に舒に移る。この時まだ2歳。また孫堅が長沙太守に任じられた時は6歳。孫策伝でも述べたように,孫堅は長沙太守になって以降は荊州に単身赴任していたようで,孫権は父孫堅の面影はほとんど記憶にない可能性もある。あったとしても孫堅が実家に戻って孫権と会うのは稀だったろう。それくらいその頃の孫堅は多忙だった。さらに父孫堅が荊州で戦死した時,孫権はわずか9歳である。その後,兄孫策に従って江都に来るが,陶謙の迫害を受ける。そこで孫権は母と共に長江を渡り曲阿に住む。兄孫策は孫一門復興のため,家族と離れ,袁術に従うことになる。しかし袁術と揚州刺史となった劉繇の関係が怪しくなってくると,再び孫権親子に危機が訪れる。曲阿は劉繇の本拠地であり,袁術側の孫策の親兄弟が安全に暮せる場所ではなかったのである。そこで孫策は朱治に命じて,母と孫権ら兄弟を呼び寄せ阜陵(長江北岸)に移住させる。その後,兄孫策が劉繇を破ると,今度は袁術との関係が怪しくなってくる。丹陽郡を巡って袁術と孫策の関係が微妙になってくるのである。こうなると今度は逆に長江南岸の方が安全になる。そのため阜陵から曲阿に舞い戻る。この頃の孫権親子は結構危険な橋を渡っている。一つ間違えれば生命の危機もあった。兄孫策もそうだが,孫権もまた成人するまで各地を転々としている。乱世に生きる者の常だったのだろうか?
  • 曲阿に戻り孫策軍に合流した孫権だが,孫策はかなり早くから孫権を政治の表舞台に立たせている。孫権はわずか15歳で陽羨県の令に任命されるのである。これは一つには孫策の一門でも信用できる人物が意外に少なく,15でも実弟である孫権を起用せざるを得なかったのかもしれない。孫賁・孫輔ら孫策の一族は袁術旗下という感覚の者が多く,完全に信用できるものは一族と言えど数は少なかった。そのため孫策は少しでも早く孫権・孫翊らに経験をつませ,孫一門の一員として自立させようとしていたとも考えられる。しかしそれだけではなさげである。この後の記述や孫策が死ぬ時の遺言を見ても,孫策は孫権を孫一門の柱となりうると考えていたようなのである。