【 赤壁の前哨戦 】
  • それぞれの内情を抱えたまま,曹操・孫権・劉備の三軍は対決に向かう。始めに述べておきたいが,赤壁の戦いの記述というのは,これほど大きなターニングポイントになった戦いでありながら,あまりにも記述がない。まず魏書。当然の事ながら魏は負けた側であり,赤壁の記述は基本的には少なくなる。しかしそれにしてもない。本当にない。まるで赤壁の戦いなんてなかったかのようである。唯一それらしいのは曹操伝である。
    • 『十二月,孫権が劉備に味方して合肥を攻撃した。公(曹操)は江陵から劉備討伐に出撃し,巴丘まで出向き,張熹を派遣して合肥を救援させた。孫権は張熹が来ると逃亡した。曹操は赤壁に到着し,劉備と戦ったが負け戦となった。その時,疫病が大流行し,官・士の多くが死んだ。そのため軍を引き上げて帰還した。かくして劉備は荊州管轄下の江南の諸郡を支配する事となった。』
    まずこの記述には間違いが指摘されている。孫権が合肥を攻撃したのは赤壁の後になる。それと一貫して赤壁では劉備に敗れたと記述されている。これは赤壁の戦いが劉備の救援要請を受けて孫権が軍を派遣したため,主力は孫権軍でも名目上は劉備に破れたとしてあるのだろうと思われる。この記述から分かるのは,赤壁で戦いがあったと言う事と,疫病が最大の撤退の理由と言う事である。
  • 次に劉備の方はどうかというと,蜀書にはほとんどそれらしい記述がない。
    • 『孫権は周瑜・程普ら水軍数万を送って,先主(劉備)と力を合わせ,曹操を赤壁において戦い,大いにこれを打ち破って,その軍船を燃やした。』
    これだけである。これは赤壁の戦いで誰もが知っていることであり,目新しい事実は一切ない。さすがに呉書となると,ある程度くわしい記述が出てくるが,具体的な経過となると,想像と推測をしなくては見えてこないというのが赤壁の戦いの実態である。そのため,この後の記述は各誌の推測と正史の記述からの予想である事を始めに述べておきたい。(参考文献・・・『歴史群雄シリーズ』(赤本) 学研 ・ 『三国志きらめく群雄』高島俊男 ちくま書房 ・ 正史三国志 ・ その他)
  • 孫権軍は樊口で劉備軍と合流し,長江を西に向かう。曹操軍は大軍を動かしやすい水陸両面からの侵攻を開始。江陵から長江を東に向かう。両軍が目指したのは陸口らしい。陸口はその後,魯粛・呂蒙・陸遜ら歴代の司令官が駐屯した要所である。地形的に見てもここを抑えられると長江南岸へ陸戦部隊の進入を許し、柴桑まで陸・水両面から攻められかねないという要所だった。曹操軍は陸口から陸軍と水軍を両面から侵攻させる予定だったというのが定説らしい。周瑜としても絶対に抑えるべき場所であった。まずここで孫権・曹操両水軍の実戦の差が出て,周瑜は陸口を先に抑える事に成功する。一説には曹操水軍は霧のため洞庭湖に迷い込んでしまい,時間を浪費したとも言う。しかしこれ一体どこから出た話なのかよく分からない。
  • 取りあえず,陸口は周瑜が抑えた。その後両軍は最初の衝突が起きる。おそらく曹操軍の先行した陸口占領部隊と周瑜軍の激突だろう。この戦いで周瑜は水戦に不慣れな曹操軍を撃破。やむなく曹操軍は最初の予定を変更し,烏林に集結する。この始めの小競り合いのあった場所が赤壁だという説もある。そうなると焼き討ちがあったのは赤壁ではなく烏林と言う事になる。呉書の記述にも,烏林で曹操軍を焼き討ちにしたという記述がほとんとで,地形的にもその方が合点がいく。こうして,曹操軍は長江北岸の烏林に,周瑜はその南岸にという布陣が成立した。