【 孫権の外交戦略 】
- 孫権の魏への臣従は,関羽を討伐するための便宜上のものであった。孫権は曹操の死に乗じて,陳邵(ちんしょう)に襄陽城を奪取させるが,これは曹仁と徐晃によって失敗に終わったらしい。また,南陽地区に住む,異民族の領主である梅敷(ばいふ)を帰順させるなど荊州北部への侵攻を行っている。
- 220年から劉備が侵攻して来る222年までの孫権の動きは実に俊敏である。まず関羽挟撃の後,孫権は予定通り一時的な魏への臣従を反故にして,荊州北部への圧力を強めている。もし,長期的な臣従の予定なら,捕らえた于禁を魏に返却するべきだが,孫権は于禁を捕らえたまま返さない。しかし,この体制は魏と蜀の反攻により,孫権が挟撃される危険もある。
- しかし,曹操死後,後を継いだ曹丕が禅譲により皇帝となり,魏を建国すると(実際,曹操は漢の一臣下であり,建国前の勢力に対して魏という書き方をするのはおかしいのですが,便宜上,これまでも魏という書き方をさせてもらいました。)劉備もまた反魏の立場を明らかにして,自ら皇帝となり,蜀を建国する。孫権は両国が対立するのをうまく利用していく。まず,孫権は曹丕や劉備のように即,皇帝を名乗れたかというとそれは否である。曹丕は漢から直接,禅譲というシステムを作って国を譲り受けた正統性を持つ国であるし,劉備はその禅譲を認めず,劉姓として漢の再興を目指すという大儀名分を得ての建国である。それに対して,孫権は劉姓でもなく,漢を引き継ぐ大儀名分はない上に,漢を簒奪(実際は禅譲ですが。)した魏に対して,漢の臣として反乱を起こすには,官職が低すぎたのである。たかだか州の牧の官職では皇帝を名乗るには身分不相応だった。注にある『魏略』に見られる孫権の考えが,信憑性があるので載せておきたい。
- 『孫権は,曹丕が皇帝となり劉備もまた皇帝を称するようになった時,自分も皇帝となる決意を決めたが,自分の官職が低いのでこのままでは人々に威信を示すことはできないと考えた。皇帝となり人々に威信を示すには,まず魏に臣従して低姿勢に出て,高い官位を貰う。その後反逆すれば,魏は孫権を討伐に出るだろう。そうすれば江東を守るという大儀名分の元,配下や民衆の支持を得られるだろう,と考えた。そのため完全に蜀との関係を絶ち,もっぱら魏に臣従した。』
- この考えは222年までの孫権の行動の規範となっていると言ってよい。つまり孫権は魏に臣従することにより,皇帝となるために必要な官職を得ようとしていたのである。それほど官職というのは重かったのだろう。だから孫権の魏への臣従はあくまで魏を利用するためであり,この後,数年の魏と呉の関係は,孫権と曹丕の騙し合いと言って良いだろう。
- 孫権は,曹丕が皇帝とになると,自ら藩国の礼を取り,魏への臣従を申し込む。と言っても,曹操と和睦して関羽を討って,その後また和睦を反故にしたのであるから,簡単ではなかった。実際,魏の内部でも孫権信用できずという意見が大半を占めるが,孫権が于禁らを魏に帰還させたのと,孫権が非常に遜った手紙を遣した事,使者として魏に出向いた張咨(ちょうし)・沈珩(しんこう)の能力などにより,孫権の臣従は認められる。曹丕は邢貞(けいてい)を使者として呉に送り,呉王・大将軍に任じる。劉曄などは孫権を呉王にしてはならないと進言するが,皇帝となったばかりの曹丕には孫権が皇帝の権威を恐れて臣従したと思いたかったのだろうか?いずれにしても事態は孫権の思惑通りに運んだ。
- また,曹丕は孫登(そんとう。孫権の長男。)に爵位を授けようとするが,孫権はそれを拒否する。おそらく爵位を与えられ,それを口実に孫登を人質に取られる事を恐れてだろう。面白いのは,孫権は息子の孫登の事となると,突然魏に対しても強弁になるのである。孫権が孫登にかなり期待していた事がわかる。
- この時期,孫権は国内の体制の再編成も行っている。荊州と揚州の両方に睨みの利く地として鄂(がく)を選び,武昌(ぶしょう)と改名,首都とする。また,各地の山越を討伐。交州の支配を強めるために,政治力の高い歩隲から軍事能力の高い呂岱に交州刺史を交代。呂岱は交州各地の反乱を鎮圧する。また張咨の進言に従い,222年には独自の年号を定め黄武とした。その他には,呉王として初代丞相に孫邵を指名している。また陸遜の進言により,荊州の士人たちの登用を行っている。この時期の孫権は実に冴え渡っていた。 ▲▼