【 孫権死す 】
- 251年,孫権はすったもんだの末に,皇太子に孫亮を据え,その母である藩氏を皇后にする。同年の11月,孫権は肺炎にかかり病の床につく。いよいよ死期を悟った孫権は,後事の措置を行う。252年,孫和を南陽王・孫奮を斉王・孫休を瑯邪王とした。さらに,諸葛恪を太子大傅,勝胤を太常・孫弘を少傅に任命する。それに太子右部督の呂拠・侍中の孫峻らを加えたメンバーが孫権死後の中枢を担う事になる。252年,四月,孫権は帰らぬ人となった。71歳であった。孫権が孫策の後を継いだのは200年の事であるから,50年以上も呉の当主として政権を掌握していた事になる。早世が多い呉の人材の中で,異例の人物と言って良いだろう。
- さて,最終的な孫権の評価である。孫権の評価というのは難しい。晩年の失策と軍事行動を起こした時の勝率の悪さがどうしても引っかかるのである。しかし孫策が当主であったなら,呉は天下を平定するか,滅びるかの二つに一つだったように思われる。呉の当主が攻勢には弱いが守勢には強い孫権だったからこそ,三国の鼎立は可能だったと言えるだろう。
- 孫権は不思議な人である。状況がよく見える現実主義者であるのに,日本の探索に乗り出すなど,冒険的行動を平気でする。部下に心配りを忘れない名君としての姿を見せたかと思うと,泥酔して殺人をしようとする暴君としての姿も見せる^^;。孫権は一言で言い表せるような単純な人ではないのである。三国志関係のメディアや小説・マンガなどは沢山あるが,孫権をメインに持ってくる物はほとんどない。これは呉がマイナーだからなのではなく,孫権という人物を掴む事ができないからではないだろうか?よく分からない人を描くのは至難である。それよりかは,正義の観点から描きやすい劉備や革命者としての曹操の方が描きやすい。しかし,だからこそ孫権は噛めば噛むほど味の出るスルメのごとく,味のある人物なのである。
- さて,孫権の死去により,孫堅・孫策・孫権三代による呉の興隆の歴史は終わりを告げる。以前にも書いたが,この時代に三代も英傑が続いたというのは,奇跡に近い。彼ら孫家三英傑は力によって道を切り開いた武門の漢だった。これより以降の孫亮・孫休・孫皓らはいわば貴族であり,その悪癖を三タイプに分けて,滅亡への道を示したに過ぎない。
- ちくま書房の『正史 三国志7巻』の後書きの文が,孫家の事をよく表していると思うので引用したい。
- -呉の兵は強かった。それは彼らが,戦さで一旗挙げようとする,フロンティアの若いあぶれ者だったからである。-