【 赤壁の戦い 】
- かくして曹操軍は長江北岸の烏林に,周瑜はその対岸に,という布陣で膠着状態となる。曹操軍が積極的に攻撃をかけなかったのは,疫病の発生と,行軍の長期化による士気の低下,および水上戦の不慣れが原因と思われる。常識的に考えると大軍を擁している方が積極的に攻撃をかけそうなものだが,赤壁の戦いではそれが逆転して周瑜側が積極的に攻撃をかけ,曹操側は持久戦の構えという状態になっていたようである。逆に周瑜側としても水上戦ならいざしらず,烏林に上陸しての陸戦となると勝機がなく,攻め手に欠いていたらしい。ちなみに季節は冬。春になって暖かくなってくると曹操軍も息を吹き返してくる可能性もある。大言を吐いて,勇ましく出て来たのは良いものの,内部では程普との主導権争いが起き,部下の甘寧と凌統は反目して隙あらば殺ってやろうとしているし,外部では,劉備は水上戦では出番なしとばかりに後方に居座っているし,攻めようにも曹操の大軍を破る策に欠けるし,と周瑜は結構やばい状態だったかもしれない。かろうじて膠着しているというのが現状であった。
- 逆に曹操としても水上戦で周瑜を破るのは難しく,かと言って陸戦部隊は長江を渡らねば用いることもできない。しかも疫病と士気の低下が激しく,何か打開策はないかと捜しているというのが実情であった。そこに目をつけた人物がいる。黄蓋である。程普と周瑜の主導権争いは当然,曹操軍にも聞こえているはずである。程普同じ孫堅以来の宿将で,立場的に程普に近いと考えられているワシが投降すると言えば,曹操も信じるのではないか?というのである。これは孫権軍の内部の問題を逆手に取った策である。周瑜も,これはイケルという訳で黄蓋の偽の投降作戦がスタートする。
- 結論から言うと,曹操は結局この投降を信じる事となる。おそらく曹操軍としても,対峙する中で孫権軍が内部から分裂する可能性は考えていたし,この膠着状態から抜け出すチャンスであった。このあたりの謀略戦は,演義で書かれている埋伏の毒や苦肉の策のような,様々な諜報活動と謀略でもって,黄蓋の投降を本物と見せかける周瑜側と,本当かどうか確かめようとする曹操側の火花を散らす見えない戦いがあっただろう。しかし諜報・謀略では周瑜が一枚上を行った。
- 黄蓋は長江に東南の風が吹く日を待って,偽の投降作戦を決行する。曹操軍の陸地の陣地まで焼き払うためである。しかも曹操軍の船は密集した状態にあった。絶好のチャンスを得て,黄蓋の決死の作戦は,曹操軍の軍船をことごとく焼き払い,陣地にまで被害が出る。この乱戦の中,黄蓋はトイレで危うく死にかけるという後日談まであるのだが^^;,それは黄蓋伝で述べたい。
- さて,この焼き討ちの成功は,孫権軍の士気を上げ,曹操軍の士気を著しく下げたと思われる。が,この焼き討ちで,曹操軍が決定的な被害を受けたのか否かはよく分かっていない。いずれにしてもここまでの大軍で天下平定の軍を起しておきながら,水軍を焼き払われ,これ以上烏林にいてもどうしようもない状況に陥ったのは間違えなさそうである。疫病も猛威を奮っており,ここで退却せざるを得なくなってしまった。曹操は江陵に曹仁を残して許都に退却する。おそらくその帰途の中で疫病で倒れる者が相次いだのだろう。この後,曹操が赤壁の時のような大軍で南下する事はほとんどなくなる。長江を挟む戦いでは,大軍は意味を成さないと理解したのかもしれない。赤壁の戦いは孫権・劉備連合軍の奇跡的勝利となり,三国時代の流れが大きく変わるターニングポイントとなる。 ▲▼