【 江陵包囲戦と合肥包囲戦 】
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-周瑜,赤壁にて曹操軍を破る-
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- しかし,ここで孫権と劉備のしたたかさの違いがでる。赤壁の勝利は周瑜の力による物なのであるが,劉備はここでうまく立ち回っていく。後で述べることになるが,さすがは歴戦の古狸という感じだ。それに対して孫権の方は若さから来る経験不足が赤壁後の戦い方に出てしまった。何を考えたのか,後詰めとして軍を進めていた孫権は,荊州方面ではなく,合肥方面に軍を進めたのである。おそらく合肥方面からも曹操軍が侵攻していたのだろうが,これは大きな戦いになる前に赤壁で曹操軍が退却したので,それに合わせて退却している。だからこの時期,合肥方面に軍を進める必要はなく,必勝を期して周瑜の増援に向かうべきだったろう。戦力の分散は兵法の愚であり,赤壁前ならともかく,赤壁以後なら合肥なら合肥に,荊州なら荊州に絞って戦うべきだった。結果論ではあるが。孫権は曹操の残存兵力と合肥の守りを甘くみていたのである。
- (注)大いなる誤解。赤壁後、曹操は合肥に陣取っており、譙に帰還したのは209年12月。江陵が落ちたので、合肥に陣取る意味がなくなり帰還した。つまり、合肥に曹操が陣取ったのは、江陵の曹仁への援護射撃であり、209年の戦いの中心は江陵である。曹操が合肥に陣取ったので、孫権も対応せざるを得ず、周瑜への援軍ができなかった。赤壁時は広域において戦線が存在し、兵力集中などできる戦いではなかった。それは徐州に侵攻した張昭も同じ。曹操軍に対応して布陣し、赤壁の勝利に乗じて侵攻を試みたが、無理だったというだけの話である。
- 李術に殺された厳象に代わって,曹操に揚州刺史に任命された劉馥(りゅうふく)という人物がいる。彼は,いずれこの合肥城が重要な防御拠点になると考え,堤防を築き,城壁と土塁を修理し,食料を蓄え,いざという時に備えていたのである。劉馥は208年に亡くなったとあり,おそらく赤壁の頃には既に他界していたのだろうが,この劉馥の遺産が今後,幾度も孫権の合肥侵攻を妨げる事になる。孫権はそれら魏側の防衛力を甘く見ていたと思われる。孫権は,後づめとしてかき集めた部隊でもって合肥城を包囲するが,落とすことができない。そうこうしているうちに援軍に駆けつけた張喜(ちょうき)と蒋済の策略によって,孫権は退却することになる。この時,張喜の軍はやはり疫病に犯されていて大した数ではなかった。しかしそれを蒋済が大軍に見せかけたため,孫権は大軍が来ると思い,退却したと魏書にはある。まあ,実際の所は合肥城が落ちないので退却したというのが本当かもしれない。
- さらに孫権は兵力を分散させる。なんと張昭に軍を任せて,徐州を攻めさせたのである。徐州を守るのは奇才・陳登であり,軍事の素人である張昭の手に負える人物ではなかった。このあたりなんとも人選が悪い。まあ実際には張昭は始めから徐州の抑えとしてこのあたりに布陣しており,赤壁の勝利に乗じて徐州に攻めこんだが,返り討ちに会ったという所かもしれない。いずれにしても,合肥・徐州への侵攻は大失敗に終わった。しかも江陵包囲中の周瑜軍は,増援がないために始めに貰った水軍中心の編成部隊3万で江陵を攻撃しなくてはならず,江陵攻略戦は困難を極めた。周瑜は,流れ矢を受け,一時指揮不可能に陥りながらも,気力を振り絞って江陵城を攻撃。ついに曹仁を退却させ,なんとか江陵を落とすのに成功する。しかしこの戦いで周瑜は寿命を縮めてしまった感がある。なんとも歯痒い話だが,赤壁の勝利の後の処理を間違ったと考えざるを得ないのである。
- もちろん,これは結果論である。孫権が合肥を落としていれば,一気に中原に勢力を広められる可能性も大いにあった。ただ,中原に軍を進めると決めたなら,荊州は劉備に任せて周瑜は合肥方面に戻らせれば良かった。また,荊州方面に進めるなら守備兵のみを残し,(と言っても曹操軍の水軍はほぼ失われているのだから,大した数はいらないはずである。)劉備が台頭する余裕を残さないほどに,軍を集中すれば良かったのである。まあ,孫権にとってこの戦いは,始めての大規模な行軍と言ってよく,百戦錬磨の劉備や曹操旗下の将たちとはまだまだ渡り合える力はなかったのだろう。最終的に赤壁の戦いの代償は南郡のみとなった。勝利の大きさに比べ,戦果は乏しい。この事が後の荊州をめぐる劉備との反目の一因となってくる。
▲▼- (注)これも大いなる間違い。戦果は「南郡・江陵」のみだが、その「南郡」がでかい。ここを占領できたことで、孫呉政権が荊州を制圧する基盤となった。そもそも赤壁以前は江夏も占領できてない。十分すぎる戦果である。