【 暴君?名君?若き日の孫権事件簿 】
  • 孫権が孫一門の一員として政治の表舞台に出てくるのは,15歳の時に陽羨県(ようせんけん)の令に任じられてからである。この頃の孫権の逸話としては,まず陽羨県公費使いこみ事件がある。遊びたい盛りの孫権は,公費をお小遣い代わりに使ってしまう。(それも一度や二度ではない。)陽羨県の功曹(政治面での補佐官)をやっていた周谷(しゅうこく)は,孫権のために会計の監査があると帳簿を書き換えて,孫権に罪が行かないようにしたらしい。
  • しかも孫権の公費使いこみはコレだけではない。次にお小遣いをくれない呂範おじさんを恨む事件が勃発する。孫権は陽羨県の公費使いこみだけでは飽き足らず,当時会計職を預かっていた呂範の所に行き,
    『呂範おじさんはお金持ってるんでしょー。お小遣いちょうだい⌒‐⌒。』
    とやる。それに対して呂範は,
    『孫策様の許可がないとあげられません。』
    と,さすが堅物という反応を見せた。孫権はこの事で呂範を恨んだらしい。うーん・・・,やっぱ暴君なのか孫権^^;。
  • さらに,孫権のティーンエイジの逸話として,油断して周泰に大怪我を負わせる事件がある。(こんなんばっかしや^^;)孫策が六県(おそらく丹陽東部の孫策の影響外だった六つの県を指すのだろう。ということはこれは太史慈討伐の時と考えられる。)の山越を討伐に行った時,孫権は兵千人と共に宣城にいた。しかし孫権はタカをくくって防御柵も作らずノホホンとしていた。・・と,そこに山越の賊が襲いかかってきたのである。(しかし山越ってホント神出鬼没ですな。江東の治安はかなりひどかったらしい。)やっと孫権が馬に乗った頃には,孫権のすぐそばまで賊が侵入して孫権の馬の鞍を切りつける者すらいる始末。孫権危うし!!っうか油断しすぎ!!。そこで必死の防戦をしたのが周泰である。周泰は全身傷だらけになりながら孫権を守り抜き,賊を追い払った後昏倒し,しばらく人事不可能となる重傷を負う。もしこれで周泰が死にでもしたら,孫権は孫一門の優秀な武将を身代わりにしてしまう所だった。その後の孫権の軍の動かし方を見ても,孫権自体は軍事的才能はないと言って良い。断言してしまおう^^;。後に大胆さを曹操に誉められたりもしているが,それはどちらかというと軍事的には無謀に近い出来事であり,よく考えたらあまり誉められたものはない。(後で書きます。)それに孫権自身が軍を率いた場合の勝率が低すぎるのである。まあ相手が百戦錬磨の曹操軍の名だたる武将たちだったという点はあるが。
  • こう見ると,孫権はダメ君主のようだが,この後の部分が孫権の二面性を示している。孫権は自分が当主になると,自分のために公費使いこみを隠蔽してくれた周谷を用いず,お小遣いをくれなかった呂範の方を信任する。また周泰に対しては,周泰が督(軍の総大将)となったとき,周泰が低い身分の出身だからと言って周泰の指示を聞かない武将たちの前で,周泰の体の傷を指し,あれはあの時の戦いの傷,これはあの時の戦いの傷・・と,周泰が命を張って自分を救ってくれた事を示すのである。この事があってから周泰旗下にあった徐盛や朱然も周泰の指示に従うようになる。
  • 孫権の君主としての優秀さの一つはこういう面にある。人材の使い方がうまいのである。これは自分自身で動きまくった孫堅・孫策とは一線を異にする。まさに孫策が言った『軍を動かして天下分け目の戦いを挑むという点ではオレの方が上だが,優秀な人材を使いこなし江東を守る点ではお前の方が上だ』というのは的確な人物評と言えるのである。