【 皇帝孫権 】
  • 229年春,孫権は正式に皇帝に即位する。曹丕・劉備が相次いで皇帝を名乗ってから,実に9年遅れての即位である。実は孫権を皇帝に推す声が国内から上がったのはこの時が最初ではない。223年にも群臣からの推挙があったのだが,孫権は承知していない。223年の段階ではまだ呉と蜀の同盟関係が安定化しておらず,まだ時期が早いと孫権は見ていた。229年の段階では,呉蜀同盟が安定化しており,孫権が皇帝となっても蜀の援護は見込めたのである。はたして蜀は孫権の皇帝即位を認め,陳震(ちんしん)を使者として孫権の帝位即位の祝辞をする。
  • 孫権は,丞相には引き続き顧雍を,軍部では上大将軍に陸遜を任命して,顧雍-陸遜体制を強化する。更に皇太子を長男の孫登(そんとう)を指名,後見に陸遜を就ける。また首都を武昌から建業に戻し,武昌には,尚書の役所のみを残し,太子である孫登が赴任している。
  • この皇帝即位の時に,呉の中心人物たちの官位はどうなっていたのだろうか?全部網羅することはできないが主要な人物を挙げて見るとこうなる。
    • 陸遜(呉郡呉県)・・上大将軍 右都護     顧雍(呉郡呉県)・・・丞相
    • 諸葛瑾(琅邪郡)・・大将軍・左都護      程秉(汝南郡)・・・・大常
    • 歩隲(臨淮郡)・・・驃騎将軍・西陵都督    潘濬(武陵郡)・・・・小府・奮威将軍
    • 朱然(丹陽郡)・・・車騎将軍・右護軍     厳畯(彭城)・・・・・衛尉
    • 全琮(呉郡銭唐)・・衛将軍・左護軍      劉基(東莱郡)・・・・光禄勲・平尚書事
    • 張昭(彭城)・・・・輔呉将軍         闞沢(会稽郡)・・・・尚書
    • 孫韶(親族)・・・・鎮北将軍         是儀(北海郡)・・・・尚書・偏将軍
    • 呂岱(広陵郡)・・・鎮南将軍・交州刺史    徐詳(呉郡鳥程)・・・侍中
    • 朱桓(呉郡呉県)・・前将軍          胡琮(汝南郡)・・・・侍中
    • 潘璋(東郡)・・・・右将軍
    • 朱拠(呉郡呉県)・・左将軍
  • まずこの中で武官の最高責任者は都護・都軍(軍権の統括者の事)となった陸遜・諸葛瑾・朱然・全琮の四名であろう。歩隲については,その後文官としての活躍が多い。次に輔呉将軍となった張昭だが,実はこれは新しく作った官職であり,三公に継ぐ官位とされている。張昭は孫権が皇帝となると,それまでの官位を返上して隠居する気だったらしいのである。しかし,それでは朝廷内がうまく行かないので,孫権は苦肉の策で新しい官職を作った物と思われる。このあたり,文官と武官の区別はそんなに無いらしい。
    • (注)まず、左と右どっちが高位かについては、歴華泉の「左右論」が詳しい。私も勉強になった。歩隲は、229年段階ですでに歩夫人が孫権に寵愛されており、しかも交州において軍功があった。よって陸遜・諸葛瑾・朱然・全琮の軍属4トップの間に入る高位となっている。
      これらの人材の出身地を調べてみると、呉郡呉県が5名(陸遜・顧雍・朱然・朱桓・朱拠、赤で記載。)と圧倒的多数。呉県以外の呉郡出身者は2名(全琮・徐詳)であることを考えると、明らかに呉県に人材が集中している。その他、揚州豪族は2名(朱然・闞沢)しかいない。荊州豪族が1名(潘濬)。で、その他10名(諸葛瑾・程秉・歩隲・厳畯・劉基・張昭・是儀・呂岱・胡綜・潘璋、青で記載。)が北方参入組である。太子孫登の補佐役4名も北方系3名(諸葛恪・張休・陳表)に呉郡呉県1名(顧譚)という配置であり、北方系と呉郡呉県系で占めている。
      こうしてみると、孫権皇帝就任時でも、まだまだ北方参入組が主流であり、それを呉郡呉県豪族の2トップである陸・顧が押さえている格好である。また親族は孫韶のみ(外戚の歩隲を含めても2名)。孫賁系・孫静系は以後、孫峻・孫綝が現れるまで高位に付いておらず、伝が立てられているのは孫韶と孫桓(いずれも孫河系)である。この辺りが孫峻・孫綝専横のバックボーンかもしれない。
  • 文官では,顧雍・潘濬・厳畯・劉基(劉繇の息子)の四名が中心人物となっている。この頃,実際の政務を司っていたと言えるだろう。また太子の孫登の元には諸葛恪(しょかつかく,諸葛瑾の子)・張休(ちょうきゅう,張昭の子)・顧譚(こたん,顧雍の孫)・陳表(ちんひょう,陳武の子)らが補佐に当たった。彼らは次代を背負うべき人材である。
  • また,孫権は父・孫堅を武烈皇帝に,母の呉夫人には武烈皇后,兄・孫策には長沙桓王の位を贈った。孫策に対して皇帝の位を贈らなかった事は不適当だという評価もある。これは実は孫策の息子たちがこの頃まだ健在だったのに対して,孫堅の息子たちは孫権を除いて全員死去していた事が関係しているようである。いわば内紛を起さぬためらしい。また,孫権は夏口と武昌から黄い龍と鳳凰が出現したという報告から年号を黄龍と改めた。